またトカゲかよ
投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2008/10/20 19:46 投稿番号: [42052 / 73791]
一日家を空けたらトカゲの投稿だらけだった、しかしトカゲは俺の事を無職のフリターと決めつけて罵倒していたことをすっかり忘れているらしい。
便利な頭脳だ。
トカゲのレス
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前にも書いたが、今の世に天動説を信じ込んでいる相手に地動説を説明しても意味がないのだよ。盲信とはそう言う物だ。
韓国を近代化させたのは日本だぞ、とどんな証拠を示して説明しても、チョッパリの嘘ニダと主張する相手が、自分の間違いに気が付くと思うか?
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1143582&tid=a4a4a4ha4a4a4h4z9qbeclga4xa5aba5 a6a5sa5ha5c0a5a6a5sa1aa&sid=1143582&mid=41861
俺のレス
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う〜〜〜む、どうもずれてる。
トカゲ、お前はあいかわらず俺に百済様式なるものの根拠を一度も示していない。
なにを俺に説明したのか?
大阪に百済という地名がある、それをもってして百済人の地であったとと言う事は出来ない。
それならば、千葉県あすみが丘は別名チバリーヒルズと呼ばれていた、従ってアメリカ人の地と主張するに等しい。
百済人を置いたから百済と地名を付けた、百済人がいる事がランドマークとなるならば、百済人は珍しい存在だったのだろう。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=a4a4a4ha4a4a4h4z9qbeclga4xa5aba5 a6a5sa5ha5c0a5a6a5sa1aa&sid=1143582&mid=41872
百済が滅びたのは660年だ、日本の寺院建築になんの影響も百済は与えていない。
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見ての通り、日本建築の組物は730年の薬師寺から1053年の平等院までの300年、隅の斗の配置に若干の洗練を加えただけで、ほとんどデザインも構造も変わっていない。 一方、法隆寺と薬師寺の間にある変化はこれと比較にならないほど大きいことも分かるだろう。 というか、法隆寺のは肘木と斗という部品を組み立てて作る「組物」ですらない。 一木から削り出した巨大な彫刻をそのまま無造作に柱の上に置いただけのものだ。
もともと日本で建築史という学問が明治時代に始まったとき、研究者たちは各地に散らばる古建築の、外形的なデザインを収集する作業から取り掛かった。 ほとんどの建物の建築年代が明らかでなかった当時、ともかくも様式を時代に対応させて編年を組み立てない限り、どんな歴史を語ることも不可能だったからだ。
このアプローチがぶつかった最初の壁が、この法隆寺と薬師寺の差だった。 法隆寺は670年に全焼したと確かに日本書紀には記録されている。 しかし、一つの様式が一つの時代に対応するという前提で編年を組み立ててきた研究者にとって、この様式の激変を30年という時間に納めることはどうしても抵抗があった。 どうしても604年の創建時の様式であって欲しかった。 そこで記録を否定するためのさまざまな解釈が考え出された。 これが有名な法隆寺再建・非再建論争である。
結局、創建時の伽藍の焼け跡が発掘されるに及んでこの論争には終止符が打たれ、この技術的な飛躍は、日本内部で起こったものではなく、8世紀初頭に本格化した唐との交流の結果、技術の輸入によって齎されたものなのだろうというのが、一応の結論になっている。
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=108454&start_range=108440&end_range=108458
便利な頭脳だ。
トカゲのレス
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前にも書いたが、今の世に天動説を信じ込んでいる相手に地動説を説明しても意味がないのだよ。盲信とはそう言う物だ。
韓国を近代化させたのは日本だぞ、とどんな証拠を示して説明しても、チョッパリの嘘ニダと主張する相手が、自分の間違いに気が付くと思うか?
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1143582&tid=a4a4a4ha4a4a4h4z9qbeclga4xa5aba5 a6a5sa5ha5c0a5a6a5sa1aa&sid=1143582&mid=41861
俺のレス
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う〜〜〜む、どうもずれてる。
トカゲ、お前はあいかわらず俺に百済様式なるものの根拠を一度も示していない。
なにを俺に説明したのか?
大阪に百済という地名がある、それをもってして百済人の地であったとと言う事は出来ない。
それならば、千葉県あすみが丘は別名チバリーヒルズと呼ばれていた、従ってアメリカ人の地と主張するに等しい。
百済人を置いたから百済と地名を付けた、百済人がいる事がランドマークとなるならば、百済人は珍しい存在だったのだろう。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=a4a4a4ha4a4a4h4z9qbeclga4xa5aba5 a6a5sa5ha5c0a5a6a5sa1aa&sid=1143582&mid=41872
百済が滅びたのは660年だ、日本の寺院建築になんの影響も百済は与えていない。
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見ての通り、日本建築の組物は730年の薬師寺から1053年の平等院までの300年、隅の斗の配置に若干の洗練を加えただけで、ほとんどデザインも構造も変わっていない。 一方、法隆寺と薬師寺の間にある変化はこれと比較にならないほど大きいことも分かるだろう。 というか、法隆寺のは肘木と斗という部品を組み立てて作る「組物」ですらない。 一木から削り出した巨大な彫刻をそのまま無造作に柱の上に置いただけのものだ。
もともと日本で建築史という学問が明治時代に始まったとき、研究者たちは各地に散らばる古建築の、外形的なデザインを収集する作業から取り掛かった。 ほとんどの建物の建築年代が明らかでなかった当時、ともかくも様式を時代に対応させて編年を組み立てない限り、どんな歴史を語ることも不可能だったからだ。
このアプローチがぶつかった最初の壁が、この法隆寺と薬師寺の差だった。 法隆寺は670年に全焼したと確かに日本書紀には記録されている。 しかし、一つの様式が一つの時代に対応するという前提で編年を組み立ててきた研究者にとって、この様式の激変を30年という時間に納めることはどうしても抵抗があった。 どうしても604年の創建時の様式であって欲しかった。 そこで記録を否定するためのさまざまな解釈が考え出された。 これが有名な法隆寺再建・非再建論争である。
結局、創建時の伽藍の焼け跡が発掘されるに及んでこの論争には終止符が打たれ、この技術的な飛躍は、日本内部で起こったものではなく、8世紀初頭に本格化した唐との交流の結果、技術の輸入によって齎されたものなのだろうというのが、一応の結論になっている。
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=108454&start_range=108440&end_range=108458