しきしまの大和ごころ
投稿者: uberzeitgeist 投稿日時: 2008/10/06 02:10 投稿番号: [40722 / 73791]
「さかしらなる漢意(からごころ)」に「しきしまの大和意(やまとごころ」を対置し、厳しく儒教を批判したのは宣長です。
「大和意」とは「嬉し悲しと動くこころ」であり人間が生まれながらに持っている真心だというのです。
これに対し、「漢意」とは定着して以来長い時間が経ったため、あたかもそれが自然の考え方・感じ方のように見なされてはいるものの、イデオロギーであるに過ぎないと宣長は看破しました。
「人前で泣いてはいけない」とはとんでもないことなのです、「大和意」からすれば。この「大和意」が万葉にあっては「ますら男振り」となって現れ、古今にあっては「手弱女振り」となって現れた、と。
李氏朝鮮には宣長に相当する人間がいなかった、すなわち「嬉し悲しと動くこころ」を「素晴らしい」とする考え方が育たなかったのでしょう。
「それは何故か」という問題を立てることが出来ます。
①朝鮮は中国に地理的に近く儒教浸透の度合いが日本の比ではなかった(日本は大洋の島国であり中国から十分離れていた)
②朝鮮は独自文化の発達という方向ではなく中国文化志向の方向を取った(日本は大陸から種々の文化を受け容れながら独自の日本文化・考え方を発達させた)
①も②も中国からの距離をメルクマールにしており朝鮮の思想展開を説明する要因としては説得力に欠けます。しかし、朝鮮思想史の素養がない私にはこれ以上思いつきません。
目を現代に転ずると、新たな考え方・宗教として韓国に導入された左翼思想・キリスト教が厳しく儒教批判を展開しないのは何故か、という疑問が湧きます。
政治戦術論から、「儒教よりも目の前の敵である『帝国主義の傀儡政権』を批判し打倒することの方が大事だ」と左翼は恐らく答えるでしょう。
しかし、「帝国主義の傀儡政権」の上部構造を批判する段階においては、必ずや李氏朝鮮の遺物である儒教批判をせずには済まない筈であり、この答えはそのことを無視しており説明していません。説得力に欠けます。
キリスト教の教会は、布教の観点から儒教批判を棚上げしていると推測できます。しかし、真のキリスト者が存在するならば厳しい儒教批判が聞こえてきても可笑しくありません。かつて聞こえてきたのは左翼と同じく軍事政権批判だけです。
恐らく韓国のキリスト者・教会も左翼勢力も儒教批判は必要ないと考えているに違いありません。私の意見ではこれは大きなミステイクです。戦略的間違いです。
儒教の残滓を徹底的に批判し壊滅的打撃を与えない限り、韓国は左翼が政権を再び取ってもその社会と民衆を内面的に民主化することは出来ず、選挙民主主義の域を出ることは不可能でしょう。韓国が先進国になるための大きな課題の一つは徹底した儒教批判です。
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.
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