いよいよ韓国消滅へカウントダウン!

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よくわからないが投稿制限に引っかかった

投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2008/08/08 20:47 投稿番号: [37026 / 73791]
エンコリが気に入らないらしい、再度投稿する、


法隆寺には、現存最古の木造建築である金堂をはじめとして、凡そ690年代から710年以前までに建てられたと推定される建物が5件ほど残っている。   そこからバスで20分も揺られると、西ノ京の薬師寺に至る。   薬師寺の東塔は730年の建立で、世界で6番目に古い木造建築ということになる。   俺はこの二つの寺をいつも、続けて見ることにしている。   そうして比べて見るときに、改めて気付かされるのは、法隆寺西院と薬師寺の間にある違い、30年という時間に起こった変化の大きさである。

もともと日本で建築史という学問が明治時代に始まったとき、研究者たちは各地に散らばる古建築の、外形的なデザインを収集する作業から取り掛かった。   ほとんどの建物の建築年代が明らかでなかった当時、ともかくも様式を時代に対応させて編年を組み立てない限り、どんな歴史を語ることも不可能だったからだ。

このアプローチがぶつかった最初の壁が、この法隆寺と薬師寺の差だった。   法隆寺は670年に全焼したと確かに日本書紀には記録されている。   しかし、一つの様式が一つの時代に対応するという前提で編年を組み立ててきた研究者にとって、この様式の激変を30年という時間に納めることはどうしても抵抗があった。   どうしても604年の創建時の様式であって欲しかった。    そこで記録を否定するためのさまざまな解釈が考え出された。   これが有名な法隆寺再建・非再建論争である。

結局、創建時の伽藍の焼け跡が発掘されるに及んでこの論争には終止符が打たれ、この技術的な飛躍は、日本内部で起こったものではなく、8世紀初頭に本格化した唐との交流の結果、技術の輸入によって齎されたものなのだろうというのが、一応の結論になっている。

積み上げた水平材で建物のフレームを固定する。

この発想はおよそ中国の軸組構法の発想ではない。   言ってみれば下半身はフリル付きスカートで上半身はジャージみたいな。   喩えが適切なのか分かりませんけど。   軸部は柱構造だが、それを保持するフレームは累木式の構築法、校倉造に用いられる土着の――校倉が日本土着だと言えば韓国人が反論しそうだが、とにかく軸組とは別個の系譜に属する発想に従っている。


こういう方式を用いた理由は、俺の推測だが、当時の木材加工技術の限界にあったのではないかと思う。   継手自体は縄文時代から存在する技術だが、正面方向に十分な強度を与えるだけの強度を継手の頭貫で実現することができなかった。   実際に法隆寺の構造が保たれている最大の理由は、樹齢2000年の檜を異常に太い木割で用いた材料の贅沢さであって、継手の構造は奈良時代以降に比べて遥かに単純であり、個々の部材の加工精度も低いのである。   最初に見た組物で、細かく部材を切り出して組み立てるという方法を取らず、1本の檜の巨木から削りだした彫刻を使うという方法を採用していることはまさにその一例だろう。

軸組+累木という折衷的な構法は、未熟な木材加工技術で軸組を無理矢理に建てようとしたときに採用された窮余の策だったのかも知れない。

推測なのでこの辺は眉に唾つけて読んでください。



日本が飛鳥時代に寺院建築に取り掛かったちょうどその頃、百済と新羅で営まれた国家的な大規模寺院で、平面を見ただけで当時の半島と日本の技術水準の差は明白である。   これらの寺院の建物は既にこの時代に、奈良時代の日本と同じく、横に伸びる長大な平面を実現しているのである。


ん。   ちょっと待て。

百済人の工匠たち、お前ら、一体倭国に何を教えに来たんだ。
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