対馬 - 韓国の主張は何でもありですね(笑
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2008/07/27 17:22 投稿番号: [36553 / 73791]
投稿者:拓
一部韓国人の領有権主張
第二次世界大戦後日本を占領した連合軍総司令部 (GHQ) に対し、韓国の李承晩政権は竹島だけでなく対馬についても「歴史的にこの島は韓国の領土であり、日本によって強制的、不法に占領された」と述べ[6]、日本からの割譲を要求したが、GHQから「根拠がない」として一蹴された。
現在の韓国政府は李承晩政権時代のように対馬領有を主張しているわけではないが、現在でも韓国内には領有権を主張する人が存在している。
2005年3月18日慶尚南道馬山市(マサン)市議会は島根県議会の「竹島の日」に対抗すると称して「對馬島の日」(대마도의 날)条例を在籍議員30人のうち出席議員29人全員が賛成し可決した。条例は「対馬島が韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と規定している[7]。これに対して韓国政府は馬山市に条例の撤回を要請している。対馬市議会の波田政和議長は2006年10月6日、馬山市議会に『対馬島の日』条例の廃止措置を打ち出す事を要請した。これに対して馬山市議会は、「対応する価値がない」と条例を廃止しないことを明確にした[8] 。
このほかの例として、2007年7月、金成萬(キム・ソンマン)前韓国海軍司令官は、対馬軍事侵攻計画を立案すべきと韓国政府に求める内容の寄稿文を著した。[9]
李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟が1471年に編纂した『海東諸国紀』は日本国対馬島の図[10]を掲載し、本文では対馬島を日本国西海道に属すとして島内の事情を詳述している。ただ、16世紀に刊行された朝鮮の地理書『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」には対馬が朝鮮領とする記述は存在しないが、地図には朝鮮に隣接する領土外地域も共に描かれており、北方国境である鴨緑江・豆満江北側の明の領土が地図内に描かれていると共に対馬も地図内に描かれている。これを「八道総図」で対馬が朝鮮領として描かれていると解釈し、これを根拠に対馬は韓国領だとする主張も朝鮮・韓国内には存在する。
これらの韓国側の主張に財部能成対馬市長は「主張は自由だが、対馬は先史時代以降ずっと日本。魏志倭人伝にも倭国の中に入っている。対馬が韓国領土というのはあり得ない」と発言している[11]。
対馬(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC
>魏志倭人伝(正式には三国志・魏書・東夷伝・倭人条)には倭の一国として倭国の北岸の「狗邪韓国」の次に「対馬国」として登場する。対馬国は邪馬台国に属しており、他の倭の国にも見られる卑狗(ヒコ)という大官と、卑奴母離(ヒナモリ)という副官が置かれ統治していた。そこには千余戸が有り、人々は海産物を採集し、南北に交易を行って生活したと記されている。
古墳時代初期に築かれた出居塚古墳は前方後円墳で、有茎柳葉式銅鏃、管玉、鉄剣部分等が出土。前方後円墳は大和地方で発達した古墳の形態で、出土した有茎柳葉式銅鏃は、古式畿内型古墳の典型的出土品であり、この時代にすでに対馬は大和朝廷の強い影響下にあったことを示している。島の首長について『先代旧事本紀』の「国造本紀」に津島県直とある。古墳時代は大和朝廷が度々朝鮮半島に出兵し交戦を繰り返した時代といえる。こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載により知る事ができる。中でも特に対馬の地名が具体的に登場するのは、日本側の記録としては『日本書紀』に、対馬北端の和珥津(わにのつ 現在の鰐浦)から出航した神功皇后率いる大軍が新羅を攻め、服属させた上、屯倉を設置したと書かれてある。また、朝鮮半島側の記録としては、『三国史記』に、第十八代・新羅王・実聖尼師今・治世七年(408年)、倭人が新羅を襲撃するために、対馬に軍営を設置し軍備を整えていた事が書かれている。このように対馬は大和朝廷による朝鮮半島出兵の中継地として重要な役割を担っていた。
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韓国人がこういう史実無視の主張を繰り返せば繰り返すほど、韓国人の言うことが信頼されなくなり、みずから墓穴を掘る結果に直結していることを自覚していないんですかね(笑
一部韓国人の領有権主張
第二次世界大戦後日本を占領した連合軍総司令部 (GHQ) に対し、韓国の李承晩政権は竹島だけでなく対馬についても「歴史的にこの島は韓国の領土であり、日本によって強制的、不法に占領された」と述べ[6]、日本からの割譲を要求したが、GHQから「根拠がない」として一蹴された。
現在の韓国政府は李承晩政権時代のように対馬領有を主張しているわけではないが、現在でも韓国内には領有権を主張する人が存在している。
2005年3月18日慶尚南道馬山市(マサン)市議会は島根県議会の「竹島の日」に対抗すると称して「對馬島の日」(대마도의 날)条例を在籍議員30人のうち出席議員29人全員が賛成し可決した。条例は「対馬島が韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と規定している[7]。これに対して韓国政府は馬山市に条例の撤回を要請している。対馬市議会の波田政和議長は2006年10月6日、馬山市議会に『対馬島の日』条例の廃止措置を打ち出す事を要請した。これに対して馬山市議会は、「対応する価値がない」と条例を廃止しないことを明確にした[8] 。
このほかの例として、2007年7月、金成萬(キム・ソンマン)前韓国海軍司令官は、対馬軍事侵攻計画を立案すべきと韓国政府に求める内容の寄稿文を著した。[9]
李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟が1471年に編纂した『海東諸国紀』は日本国対馬島の図[10]を掲載し、本文では対馬島を日本国西海道に属すとして島内の事情を詳述している。ただ、16世紀に刊行された朝鮮の地理書『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」には対馬が朝鮮領とする記述は存在しないが、地図には朝鮮に隣接する領土外地域も共に描かれており、北方国境である鴨緑江・豆満江北側の明の領土が地図内に描かれていると共に対馬も地図内に描かれている。これを「八道総図」で対馬が朝鮮領として描かれていると解釈し、これを根拠に対馬は韓国領だとする主張も朝鮮・韓国内には存在する。
これらの韓国側の主張に財部能成対馬市長は「主張は自由だが、対馬は先史時代以降ずっと日本。魏志倭人伝にも倭国の中に入っている。対馬が韓国領土というのはあり得ない」と発言している[11]。
対馬(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC
>魏志倭人伝(正式には三国志・魏書・東夷伝・倭人条)には倭の一国として倭国の北岸の「狗邪韓国」の次に「対馬国」として登場する。対馬国は邪馬台国に属しており、他の倭の国にも見られる卑狗(ヒコ)という大官と、卑奴母離(ヒナモリ)という副官が置かれ統治していた。そこには千余戸が有り、人々は海産物を採集し、南北に交易を行って生活したと記されている。
古墳時代初期に築かれた出居塚古墳は前方後円墳で、有茎柳葉式銅鏃、管玉、鉄剣部分等が出土。前方後円墳は大和地方で発達した古墳の形態で、出土した有茎柳葉式銅鏃は、古式畿内型古墳の典型的出土品であり、この時代にすでに対馬は大和朝廷の強い影響下にあったことを示している。島の首長について『先代旧事本紀』の「国造本紀」に津島県直とある。古墳時代は大和朝廷が度々朝鮮半島に出兵し交戦を繰り返した時代といえる。こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載により知る事ができる。中でも特に対馬の地名が具体的に登場するのは、日本側の記録としては『日本書紀』に、対馬北端の和珥津(わにのつ 現在の鰐浦)から出航した神功皇后率いる大軍が新羅を攻め、服属させた上、屯倉を設置したと書かれてある。また、朝鮮半島側の記録としては、『三国史記』に、第十八代・新羅王・実聖尼師今・治世七年(408年)、倭人が新羅を襲撃するために、対馬に軍営を設置し軍備を整えていた事が書かれている。このように対馬は大和朝廷による朝鮮半島出兵の中継地として重要な役割を担っていた。
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韓国人がこういう史実無視の主張を繰り返せば繰り返すほど、韓国人の言うことが信頼されなくなり、みずから墓穴を掘る結果に直結していることを自覚していないんですかね(笑
これは メッセージ 36550 (yukukumo21 さん)への返信です.