日本に見る百済文化 - 飛鳥寺
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2008/05/14 21:42 投稿番号: [34185 / 73791]
投稿者:直子
たくさんあるのにねぇ〜(^^;
飛鳥寺以前
我が国仏教の公式伝来は、538年(552年とする説もある。)に百済の聖明王の命で訪れた使者が、欽明(きんめい)天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことによるとされています。
欽明天皇は仏教を礼拝すべきかを臣下に問います。仏教を受け入れるべきとする蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)に対して、物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)は、排除するべきだとしました。
天皇は試しに拝んでみることとして、伝えられた仏像・仏具などを蘇我稲目に授けます。稲目は小墾田(おはりだ)の私邸に仏像を安置し、向原(むくはら)の家を浄めて寺としました。後の豊浦寺(とゆら・とようら)となる我が国最初のお寺であるわけです。
では、飛鳥寺創建の経緯を見ていくことにします。
崇峻(すしゅん)天皇の元年(588年)、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が争う「蘇我物部戦争」の中で、崇仏派の聖徳太子が四天王に戦勝を祈願し、四天王寺の建立を誓願したことは有名ですが、同時に蘇我馬子(そがのうまこ)もまた戦勝による寺塔の建立を請願していました。
勝ちを収めた蘇我馬子は、請願どおり法興寺(ほうこうじ・飛鳥寺)の建立に取り掛かります。
飛鳥寺が建立された場所は、真神原(まがみがはら)または苫田(とまだ)と呼ばれていました。真神原は万葉集などでも「大口の真神原」と詠まれ、狼の生息する原野を意味する地名が付けられていました。苫田は菅(すげ)・茅(かや)などが生い茂った湿原を意味するようです。
日本書紀によると、雄略(ゆうりゃく)天皇の7年(463年)の条には、『新来(あらき)の陶部(すえべ)・鞍部(くらつくりべ)・画部(かきべ)・錦部(にしきごりべ)たちを、上桃原(かみももはら)・下桃原(しもももはら)・真神原に移住させた。』とあります。
これは、飛鳥の開拓に渡来の人々を移り住ませたことを意味しているものでしょう。桃原は、石舞台古墳付近の地名だと思われます。
職能集団である彼らが、先進の技術と道具を駆使して飛鳥を切り開いて行ったことは、後に飛鳥寺がこの地に建立される大きな布石となったのではないでしょうか。
飛鳥寺建立の経過は、日本書紀や飛鳥寺の後身である元興寺伽藍縁起并流記資材帳に記されていますが、資材帳にある塔露盤銘がもっとも確実な資料とされています。
それによると、崇峻天皇の元年(588年)百済王に、法師や工匠の派遣を願い出て、それに応えるようにすぐさま百済から僧、舎利、寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工が献上されています。また、善信尼(鞍部司馬達等の娘)などを百済に遣わし、法を学ばせます。
それらと平行して、広大な敷地の造成や作業場の整備も始まっていたことでしょう。
http://sanzan.gozaru.jp/bb/bb51/bb51.html
ほんとうにたくさんありますわよ^^
たくさんあるのにねぇ〜(^^;
飛鳥寺以前
我が国仏教の公式伝来は、538年(552年とする説もある。)に百済の聖明王の命で訪れた使者が、欽明(きんめい)天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことによるとされています。
欽明天皇は仏教を礼拝すべきかを臣下に問います。仏教を受け入れるべきとする蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)に対して、物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)は、排除するべきだとしました。
天皇は試しに拝んでみることとして、伝えられた仏像・仏具などを蘇我稲目に授けます。稲目は小墾田(おはりだ)の私邸に仏像を安置し、向原(むくはら)の家を浄めて寺としました。後の豊浦寺(とゆら・とようら)となる我が国最初のお寺であるわけです。
では、飛鳥寺創建の経緯を見ていくことにします。
崇峻(すしゅん)天皇の元年(588年)、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が争う「蘇我物部戦争」の中で、崇仏派の聖徳太子が四天王に戦勝を祈願し、四天王寺の建立を誓願したことは有名ですが、同時に蘇我馬子(そがのうまこ)もまた戦勝による寺塔の建立を請願していました。
勝ちを収めた蘇我馬子は、請願どおり法興寺(ほうこうじ・飛鳥寺)の建立に取り掛かります。
飛鳥寺が建立された場所は、真神原(まがみがはら)または苫田(とまだ)と呼ばれていました。真神原は万葉集などでも「大口の真神原」と詠まれ、狼の生息する原野を意味する地名が付けられていました。苫田は菅(すげ)・茅(かや)などが生い茂った湿原を意味するようです。
日本書紀によると、雄略(ゆうりゃく)天皇の7年(463年)の条には、『新来(あらき)の陶部(すえべ)・鞍部(くらつくりべ)・画部(かきべ)・錦部(にしきごりべ)たちを、上桃原(かみももはら)・下桃原(しもももはら)・真神原に移住させた。』とあります。
これは、飛鳥の開拓に渡来の人々を移り住ませたことを意味しているものでしょう。桃原は、石舞台古墳付近の地名だと思われます。
職能集団である彼らが、先進の技術と道具を駆使して飛鳥を切り開いて行ったことは、後に飛鳥寺がこの地に建立される大きな布石となったのではないでしょうか。
飛鳥寺建立の経過は、日本書紀や飛鳥寺の後身である元興寺伽藍縁起并流記資材帳に記されていますが、資材帳にある塔露盤銘がもっとも確実な資料とされています。
それによると、崇峻天皇の元年(588年)百済王に、法師や工匠の派遣を願い出て、それに応えるようにすぐさま百済から僧、舎利、寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工が献上されています。また、善信尼(鞍部司馬達等の娘)などを百済に遣わし、法を学ばせます。
それらと平行して、広大な敷地の造成や作業場の整備も始まっていたことでしょう。
http://sanzan.gozaru.jp/bb/bb51/bb51.html
ほんとうにたくさんありますわよ^^
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.