Re: 空母「あかぎ」が誕生<ほう、直が
投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2008/03/11 16:48 投稿番号: [32919 / 73791]
>日本人は戦争向きではありませんね。闘争心が弱いし、何が何でも勝つぞの精神が無い。体も小さく体力も無い。
ふむ、ふむ、誇らしい朝鮮人は昔は戦争に強かったのか?
戦わず併合された日韓併合はさておき。
文禄慶長の役でも1ヶ月足らずで首都を落とされている。
それでは、朝鮮が日本を攻めた時果たして朝鮮兵は強かったのだろうか?
文永・弘安の役に関する、高麗史の記述を見てみよう。
まず、文永の役
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金方慶は総司令官の忽敦と隣接部隊の司令官である洪茶丘 に「我が軍は劣勢とはいえ、敵の領土に入ることが出来たのだから、戦うべきです。船を焼き払い、背水の陣をしいて、もう一度戦いましょう。」と口先だけで勇ましいことを言います。総司令官の忽敦は「あのねえ、孫子が〈小敵の堅、大敵の擒〉って言うようにね、味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)をかきあつめて、どんどん増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)と戦っても勝てるわけがないでしょ。退却するしかないよね。」と金方慶の無謀な案を一撃で却下します。
続いて弘安の役
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そんなこんなでついに出撃です。康安四年六月、金方慶以下25000の高麗軍を主力にする45000名の東路軍は九州沿岸に殺到します。金方慶、周鼎球、朴之亮、荊萬戸(萬戸は軍の階級)らが日本兵を300名ほど討ち取って調子に乗っていると、日本軍の突進を受け手高麗軍の戦線があっさり崩壊。指揮官の茶丘は馬に乗って敵前逃亡開始。日本軍はこれを追撃しまくります。ギリギリのところで王萬戸の部隊が日本軍を横から攻撃してくい止めたので、茶丘は九死に一生を得たわけですね。高麗軍、翌日もしっかり負けました(原文:翼日復戦敗績)。その後も高麗軍は戦うたびに負け続けです(原文:累戦不利)。
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=72386&st=title&sw=%E9%87%91%E6%96%B9%E6%85%B6&end_range=72386朝鮮軍弱い。日本軍強すぎwwww
朝鮮・モンゴルの短弓では日本兵の甲冑を貫けなかったろう。
しかたなく、卑怯な朝鮮・モンゴル兵は毒矢を使った。
矢合戦で負け、接近戦になると鋭利な日本刀に朝鮮モンゴル兵は革製の甲冑ごと斬られた。
モンゴル兵は馬に乗ってこそ強い、徒歩では日本兵に敵することは出来ない、騎兵の集団運用こそがモンゴル兵の強さ。
モンゴルも朝鮮と組んでは敗戦する法則の適用から免れることが出来なかった。
これは メッセージ 32909 (backgroundcolor1154 さん)への返信です.
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