Re: 韓国車も消えるし、日本車無敵かな〜?
投稿者: yokokaratatehe 投稿日時: 2008/01/29 03:50 投稿番号: [30292 / 73791]
>>生産設備も技術者も失われた状態で、戦前の綿織物、絹、食器のレベルが戦後の輸出のスタートラインとノー天気主張を繰り返す馬鹿者。<
>うれしい話は結構だが、日本の輸出は戦前がスタート地点などと、それは言い過ぎだな。インフラが破壊されていて、また技術者が大量にいなくなって、どうして戦争がなかったのと同じスタート地点に立てたのかね。<
人絹、絹や綿の生産地、工場の殆どは山梨、長野、群馬、福井などの郊外にあって、爆撃にあっておらず、戦後、すぐ生産再開したし、人絹も日本は戦前から輸出に強みを発揮していた。
>福井県産絹織物輸出量が全国の60%に達し名実ともに世界一の絹織物生産地となった。また、レーヨン工業の時代に入るといち早く輸出人絹織物へ転換、昭和12年(1935)の人絹織物生産は全国の60%を占めるに至り、世界トップクラスの人絹王国とまでいわれるほど、大発展を遂げた。<
>レーヨンの技術はすすんでいました。戦後の工業復興の中でも、繊維工業は長年の技術が生かされ、再び活発な動きを示しました。生産された織物は大部分がアメリカ合衆国やカナダなどの海外に輸出されました。織物業界は活況に沸き、「糸ヘン景気」といわれるほどでした。<
あまり、無知をさらさない方がいいのではないか?
相手にするのも恥ずかしいほどだが。
燕市を中心とした洋食器は、戦前から欧米に輸出されていたし、評価は非常に高かった。
戦後は、輸出再開は、アメリカの商社が尋ねて来て、盛んに買い付け、生産させた(戦前の評判が高かったからだ)のが始まりで、これは燕絡みの本や小説などで、戦後復興の1エピソードとして大体乗っている。
そして、輸出再開から、たった1年でアメリカ側で貿易摩擦になるほど、よく売れた。
洋食器は品質が悪ければ売れない。
>燕の分業構造の生い立ち
燕は、江戸時代中期に鎚起銅器の技術を活かして銅器やキセル、矢立などに活路を見いだしていったが、やがてキセルは紙巻煙草に、矢立は万年筆に、銅器はアルミにとってかわられ、銅器製造は没落していく。そうした非常にきびしい市場環境変化のなかから大正期に生まれてきたのが金属洋食器であった。
産地では戦後の物資不足に対し、軍需用機械を使いこなすことで金物生産を拡大していった。
貿易再開までの業界の状況
昭和20年終戦と同時に社会混乱と、経済の壊滅、生活生産物資の欠乏と金融通貨不安、破壊的超インフレ等あらゆる悪条件の状況下にありました。
業界はこの様な生産環境を克服して貿易再開までの対応策として、3グループによって日本洋食器株式会社、太平洋食器株式会社の設立、又燕洋食器工業組合輸出部を発足して夫々態勢を整い、業務の展開を図りました。
昭和22年8月ころには制限つきで民間管理貿易が海外の一部限定された地域向けに再開され、中南米その他の国々へと少数ながら漸次増加傾向で輸出が行われました。又米国軍の進駐による洋食器の大量発注にはグループがそれぞれ共同受注して納入に対し、昭和24年貿易再開まで業界は概ね活況でありました。
此の間ステンレス製洋食器に対するステンレス材料の品質の改善改良、並びに生産工程の改善研究、設備の改善改修、材料の円滑な供給体制の確立等について、産地全体として取組み生産構造改革を推進し、業界としてステンレス転換転進へと展開し、今後の輸出市場確立に対応しました。
輸出再開とアメリカ業者輸入制限提訴の動向
昭和24年貿易再開以来、ステンレス製洋食器は海外から意外な好評を得て、順調に輸出実績が進展していたところ、昭和25年から輸出は急激に拡大して、その輸出比率が50%に及び、アメリカの洋食器製造業者は危機感をもってメッセージを訴えはじめました。
>うれしい話は結構だが、日本の輸出は戦前がスタート地点などと、それは言い過ぎだな。インフラが破壊されていて、また技術者が大量にいなくなって、どうして戦争がなかったのと同じスタート地点に立てたのかね。<
人絹、絹や綿の生産地、工場の殆どは山梨、長野、群馬、福井などの郊外にあって、爆撃にあっておらず、戦後、すぐ生産再開したし、人絹も日本は戦前から輸出に強みを発揮していた。
>福井県産絹織物輸出量が全国の60%に達し名実ともに世界一の絹織物生産地となった。また、レーヨン工業の時代に入るといち早く輸出人絹織物へ転換、昭和12年(1935)の人絹織物生産は全国の60%を占めるに至り、世界トップクラスの人絹王国とまでいわれるほど、大発展を遂げた。<
>レーヨンの技術はすすんでいました。戦後の工業復興の中でも、繊維工業は長年の技術が生かされ、再び活発な動きを示しました。生産された織物は大部分がアメリカ合衆国やカナダなどの海外に輸出されました。織物業界は活況に沸き、「糸ヘン景気」といわれるほどでした。<
あまり、無知をさらさない方がいいのではないか?
相手にするのも恥ずかしいほどだが。
燕市を中心とした洋食器は、戦前から欧米に輸出されていたし、評価は非常に高かった。
戦後は、輸出再開は、アメリカの商社が尋ねて来て、盛んに買い付け、生産させた(戦前の評判が高かったからだ)のが始まりで、これは燕絡みの本や小説などで、戦後復興の1エピソードとして大体乗っている。
そして、輸出再開から、たった1年でアメリカ側で貿易摩擦になるほど、よく売れた。
洋食器は品質が悪ければ売れない。
>燕の分業構造の生い立ち
燕は、江戸時代中期に鎚起銅器の技術を活かして銅器やキセル、矢立などに活路を見いだしていったが、やがてキセルは紙巻煙草に、矢立は万年筆に、銅器はアルミにとってかわられ、銅器製造は没落していく。そうした非常にきびしい市場環境変化のなかから大正期に生まれてきたのが金属洋食器であった。
産地では戦後の物資不足に対し、軍需用機械を使いこなすことで金物生産を拡大していった。
貿易再開までの業界の状況
昭和20年終戦と同時に社会混乱と、経済の壊滅、生活生産物資の欠乏と金融通貨不安、破壊的超インフレ等あらゆる悪条件の状況下にありました。
業界はこの様な生産環境を克服して貿易再開までの対応策として、3グループによって日本洋食器株式会社、太平洋食器株式会社の設立、又燕洋食器工業組合輸出部を発足して夫々態勢を整い、業務の展開を図りました。
昭和22年8月ころには制限つきで民間管理貿易が海外の一部限定された地域向けに再開され、中南米その他の国々へと少数ながら漸次増加傾向で輸出が行われました。又米国軍の進駐による洋食器の大量発注にはグループがそれぞれ共同受注して納入に対し、昭和24年貿易再開まで業界は概ね活況でありました。
此の間ステンレス製洋食器に対するステンレス材料の品質の改善改良、並びに生産工程の改善研究、設備の改善改修、材料の円滑な供給体制の確立等について、産地全体として取組み生産構造改革を推進し、業界としてステンレス転換転進へと展開し、今後の輸出市場確立に対応しました。
輸出再開とアメリカ業者輸入制限提訴の動向
昭和24年貿易再開以来、ステンレス製洋食器は海外から意外な好評を得て、順調に輸出実績が進展していたところ、昭和25年から輸出は急激に拡大して、その輸出比率が50%に及び、アメリカの洋食器製造業者は危機感をもってメッセージを訴えはじめました。
これは メッセージ 30287 (tokagenoheso さん)への返信です.