>米陸軍史「日本軍は沖縄で真に優秀だった
投稿者: k3mysterylabo 投稿日時: 2007/10/10 01:23 投稿番号: [23808 / 73791]
沖縄にしても、硫黄島にしても、北方諸島でも日本軍は防戦も強いのが凄いですね。
相手も恐れをなし、敬意を払わざるを得ないほど戦う。
>欧州戦線から移動したアメリカの従軍記者らも
>日本軍の一連の陣地は、欧州戦の体験者もこれを評して、巧緻かつ構想豊かであると同時にこれまで見たいかなる陣地よりも見事に組織されていると慨嘆した。・・・<
1.「沖縄の日本軍の作戦はスマートだった」
山本七平氏は、フィリピンで砲兵少尉として戦ったが、敗戦後、捕虜収容所で米軍の将校から一兵卒に至るまで異口同音に「沖縄の日本軍の作戦はスマートだった。」「あれを徹底的にやられたら参る所だった。」と語るのを聞いた。
米陸軍戦史「最後の戦い」も、「沖縄における日本軍は、まことに優秀な計画と善謀をもって、わが進攻に立ち向かった」と述べている。
実際に日本軍守備隊の戦死者約6万5千人に対して、米軍は地上戦闘での死傷者3万9千人、激烈な戦闘のための神経症などで2万6千人、神風特攻による艦船の沈没・損傷4百余隻で死傷者約1万人と、合計7万5千人もの死傷者を出している。
沖縄戦は、米国から見れば、太平洋戦争で最も大きな損害を出した戦いであった。
2.「エイプリル・フールではないか」
昭和20年4月1日は朝から抜けるような青空に断雲が浮かぶ、清涼な日和だった。この日、米軍は沖縄本島中部の渡久地海岸への上陸を開始した。戦艦10、巡洋艦9、駆逐艦23、
砲艦117からなる支援砲撃艦隊が、艦砲弾4万5千発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾2万2千発の史上かつてない猛砲撃を加えた。午前8時、千数百隻の上陸用舟艇が海岸に殺到する。幅11キロの海岸に4個師団もの大兵力が一度に上陸するのは、米軍も初めての経験だった。
しかし、日本軍からは何の抵抗もない。硫黄島では上陸直後に日本軍の猛砲撃を受けて大損害を被った、その記憶も生々しいだけに、米軍は「エイプリル・フールではないか」と狐につままれたようだった
3.異端の作戦参謀・八原博通大佐■
日本軍の作戦は、高級参謀・八原博通大佐が立てたものだった。八原大佐は陸軍大学を優秀な成績で卒業した後、アメリカに留学した経験を持つ陸軍では数少ない米国通であった。マレー進攻などで参謀将校として活躍した後、陸軍大学の教官を務めた。当時、ドイツ陸軍流の華麗な戦術がもてはやされる中で、理詰めの地味な、しかし確実に成功する戦術を重視する異端教官だった。
沖縄に進攻する米軍の膨大な火力にまともにぶつかっては、短期間に全滅するだけである。八原大佐は島の南半部が分厚いサンゴ礁の岩盤に覆われているのに目をつけ、その下の天然洞窟などを利用して地下壕陣地を作り、ここを根拠にして米軍に抵抗する作戦を立てた。
いずれ米軍に敗れることは明白であるが、華々しく玉砕するよりも、一日でも長く米軍を拘束して出血を強要して、本土決戦準備の時間を稼ぐ事が、国家のためになる、と考えたのである。
八原大佐は、島民の老幼婦女子のうち8万人を本土に避難させ、残りを極力、戦闘を予期しない島北部に疎開させた上で、青壮年男子2万人を動員して、陣地構築を進めていた。米軍の上陸前の猛砲撃も、すべてサンゴ礁岩盤に跳ね返されていたのである。
日本軍の高度な抵抗に直面した米軍は、4月いっぱいかけても、わずか、2、3キロしか前進できなかった。
そして日本軍とのあまりに近距離での激戦により、沖縄戦全体で2万6千人もの兵士が戦闘神経症にかかり戦列を離れた。これは太平洋戦争では初めて経験であった。
沖縄攻略戦の総指揮官ニミッツ提督は、地上軍指揮官バックナー陸軍中将に「海軍は一日に1.5隻の割合で艦船を失っている。5日以内に第一線が動き始めなければ、貴官を更迭する」ときびしい表情で申し渡した。
4月1日から6月22日まで日本軍は82日間持ちこたえたが、その間に約1900機の特攻機が本土から出撃し、空母・戦艦を含む368隻を損傷させた。米海軍の戦死・行方不明は約4900名、負傷者は約4800名に上った。
米軍は先に徒歩半日で一周できるほどの硫黄島を奪うのに2万6千の死傷者を出し、いままた沖縄を占領するのに7万5千人の死傷者を出した。
本土決戦を敢行したら100万人規模の死傷者が出るだろうと米国が恐れたのも、あながち誇張ではない。
この恐れが米政府をして無条件降伏要求を緩和させ、日本政府の形態は日本国国民の選択に任されるという条件を引き出させた。
そこに終戦への一筋の道が開けたのである。<
相手も恐れをなし、敬意を払わざるを得ないほど戦う。
>欧州戦線から移動したアメリカの従軍記者らも
>日本軍の一連の陣地は、欧州戦の体験者もこれを評して、巧緻かつ構想豊かであると同時にこれまで見たいかなる陣地よりも見事に組織されていると慨嘆した。・・・<
1.「沖縄の日本軍の作戦はスマートだった」
山本七平氏は、フィリピンで砲兵少尉として戦ったが、敗戦後、捕虜収容所で米軍の将校から一兵卒に至るまで異口同音に「沖縄の日本軍の作戦はスマートだった。」「あれを徹底的にやられたら参る所だった。」と語るのを聞いた。
米陸軍戦史「最後の戦い」も、「沖縄における日本軍は、まことに優秀な計画と善謀をもって、わが進攻に立ち向かった」と述べている。
実際に日本軍守備隊の戦死者約6万5千人に対して、米軍は地上戦闘での死傷者3万9千人、激烈な戦闘のための神経症などで2万6千人、神風特攻による艦船の沈没・損傷4百余隻で死傷者約1万人と、合計7万5千人もの死傷者を出している。
沖縄戦は、米国から見れば、太平洋戦争で最も大きな損害を出した戦いであった。
2.「エイプリル・フールではないか」
昭和20年4月1日は朝から抜けるような青空に断雲が浮かぶ、清涼な日和だった。この日、米軍は沖縄本島中部の渡久地海岸への上陸を開始した。戦艦10、巡洋艦9、駆逐艦23、
砲艦117からなる支援砲撃艦隊が、艦砲弾4万5千発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾2万2千発の史上かつてない猛砲撃を加えた。午前8時、千数百隻の上陸用舟艇が海岸に殺到する。幅11キロの海岸に4個師団もの大兵力が一度に上陸するのは、米軍も初めての経験だった。
しかし、日本軍からは何の抵抗もない。硫黄島では上陸直後に日本軍の猛砲撃を受けて大損害を被った、その記憶も生々しいだけに、米軍は「エイプリル・フールではないか」と狐につままれたようだった
3.異端の作戦参謀・八原博通大佐■
日本軍の作戦は、高級参謀・八原博通大佐が立てたものだった。八原大佐は陸軍大学を優秀な成績で卒業した後、アメリカに留学した経験を持つ陸軍では数少ない米国通であった。マレー進攻などで参謀将校として活躍した後、陸軍大学の教官を務めた。当時、ドイツ陸軍流の華麗な戦術がもてはやされる中で、理詰めの地味な、しかし確実に成功する戦術を重視する異端教官だった。
沖縄に進攻する米軍の膨大な火力にまともにぶつかっては、短期間に全滅するだけである。八原大佐は島の南半部が分厚いサンゴ礁の岩盤に覆われているのに目をつけ、その下の天然洞窟などを利用して地下壕陣地を作り、ここを根拠にして米軍に抵抗する作戦を立てた。
いずれ米軍に敗れることは明白であるが、華々しく玉砕するよりも、一日でも長く米軍を拘束して出血を強要して、本土決戦準備の時間を稼ぐ事が、国家のためになる、と考えたのである。
八原大佐は、島民の老幼婦女子のうち8万人を本土に避難させ、残りを極力、戦闘を予期しない島北部に疎開させた上で、青壮年男子2万人を動員して、陣地構築を進めていた。米軍の上陸前の猛砲撃も、すべてサンゴ礁岩盤に跳ね返されていたのである。
日本軍の高度な抵抗に直面した米軍は、4月いっぱいかけても、わずか、2、3キロしか前進できなかった。
そして日本軍とのあまりに近距離での激戦により、沖縄戦全体で2万6千人もの兵士が戦闘神経症にかかり戦列を離れた。これは太平洋戦争では初めて経験であった。
沖縄攻略戦の総指揮官ニミッツ提督は、地上軍指揮官バックナー陸軍中将に「海軍は一日に1.5隻の割合で艦船を失っている。5日以内に第一線が動き始めなければ、貴官を更迭する」ときびしい表情で申し渡した。
4月1日から6月22日まで日本軍は82日間持ちこたえたが、その間に約1900機の特攻機が本土から出撃し、空母・戦艦を含む368隻を損傷させた。米海軍の戦死・行方不明は約4900名、負傷者は約4800名に上った。
米軍は先に徒歩半日で一周できるほどの硫黄島を奪うのに2万6千の死傷者を出し、いままた沖縄を占領するのに7万5千人の死傷者を出した。
本土決戦を敢行したら100万人規模の死傷者が出るだろうと米国が恐れたのも、あながち誇張ではない。
この恐れが米政府をして無条件降伏要求を緩和させ、日本政府の形態は日本国国民の選択に任されるという条件を引き出させた。
そこに終戦への一筋の道が開けたのである。<
これは メッセージ 23615 (fvnii さん)への返信です.