蒋介石の、三度にわたる逆感状
投稿者: fvnii 投稿日時: 2007/10/08 00:41 投稿番号: [23612 / 73791]
>中国の雲南遠征軍に対する日本の陸軍拉孟守備隊は、約1300名に過ぎない。
単純に構成員の頭数からいっても彼我の比は38:1、多くの負傷兵を抱え援軍も望めぬ孤立した守備隊の実情からすれば、50:1が正直なところであろうか。
しかも絶対的な火力・補給力の差、航空機の有無を考えれば、その戦力比は100:1でもまだ甘い、のかもしれない。
しかし、中国・雲南遠征軍の将卒は、打ち続く挫折と莫大な損害に、痛く焦燥していた。
焦燥に駆られ、憤懣を腹中に溜め込んでいたのは、国民政府の主席を務める最高指導者蒋介石とて同じである。
膨大な物資援助、資金援助、技術指導、戦術指導を受けている米英に対し、いくら手強いとはいえごく僅かな日本兵を相手にこの有様では顔向けができない・・・恥ずかしい・・・・それが蒋介石の本音、であったのだ。
たまりかねた蒋介石は、全軍の将帥たちに向けて、激しい叱咤の声明を発した。
実はこの声明を伝える無電は、同時に日本軍にも傍受され、解読されていたのである。
そして、内容を伝え聞いた日本軍人を感激させた。
この声明は、以来「蒋介石の逆感状」と呼ばれている。
「戦局の全般は有利に展開し、勝利の光は前途に輝いているが彼岸に達するまでの荊(いばら)の道はなお遥かに遠い。
各方面における戦績を見ると、予の期待に副(そ)わないものが非常に多い。
ビルマの日本軍を模範にせよ。
ミイトキーナにおいて、拉孟において、騰越(とうえつ)において、日本軍の発揮した善戦健闘に比べてわが軍の戦績がどんなに見劣りするか。
予は甚だ遺憾に堪えない。
将兵一同、さらに士気を振起し、訓練を重ね、戦法を改め、苦難欠乏を甘受克服して大敵の打倒に邁進せんことを望む。」
拉孟において、騰越(とうえつ)において、ミイトキーナにおいて・・・・・その実勢力に比して、信じがたいほどの反発力を示す日本軍守備隊。
実際に最前線で日本軍と戦っている将兵にとっても、日本の陸軍士官学校卒業生である蒋介石にとっても、日本軍の極めて高い士気、恐るべき戦闘力、頑強さは、想像を絶していた。
拉孟を取り囲んでいる雲南遠征軍は、支那中央部で日本軍と戦っている軍とは違い、米軍のジョセフ・スチルウェル中将により米式に徹底的に鍛えられ、質・量ともに万全な支援を受け、士気・練度・装備すべてにおいて格段に優れた集団、大集団なのである。
決して弱い軍隊ではない。
しかし、彼らが暴風のような猛攻を幾度繰り返しても、孤立無援の拉孟陣地は、いまだ陥ちない。
いや、陥ちないどころか、わずかな一角さえ奪うことを許さないのだ。
そして七月二十日、過去最大の集中砲火が戦いの火蓋を切った。
拉孟守備隊の頭上には、ありとあらゆる砲弾、鉄塊が無数に撃ち込まれ、舞い上がる砂塵と土煙、硝煙であたりは薄暮の様相を呈す。壕内に潜む守備隊将兵は、湿気と暑熱のなかじっと耐える。遠巻きにする敵は、徐々に包囲網を狭め、すきあらば、と突撃の好機を窺う。
わが守備隊の抵抗はここでも頑強を極め、寡兵ながら敵の巨大戦力の侵攻を、あくまで峻拒し続けた。
雲南遠征軍も、陣地上空から日本兵に対し、投降を勧告するビラをばらまいた。
一読した守備隊の将兵は、腹を抱えて大笑いしたという。
八月を迎えた。
わが拉孟守備隊の兵員は、負傷兵を加えても、もはや三百人に満たない。
彼我の攻防が、小競り合いを経て本格化してからもすでに二ヶ月がたち、守備隊の兵力は四分の一以下にまで減少している。
八月二十六日
この日、蒋介石は雲南省の省都昆明にいた。そして拉孟、騰越、ミイトキーナを包囲攻撃している自軍に向け、督励の訓電を発したのである。
「騰越および拉孟においては、わが優秀近代化の国軍をもってしても、(日本軍守備隊は)尚孤塁を死守しあり。
・・・かくては国軍の名誉を失墜するのみならず中国の世界的地位をも疑わしむるに至り、・・・かのミイトキーナ、拉孟、騰越を死守しある日本軍人精神は東洋民族の誇りたるを学び、範としてわが国軍の名誉を失墜せざらんことを望む。」
「蒋介石の逆感状」その第二弾、とも言うべきものである。
もちろんわが軍にも傍受解読され、ビルマ方面軍将兵の士気をおおいに高めた。
遂に、日本守備隊全滅。翌昭和十九年九月九日、蒋介石は、再び全軍に向け訓令を発した。
「拉孟の日本軍を範とせよ。」<
単純に構成員の頭数からいっても彼我の比は38:1、多くの負傷兵を抱え援軍も望めぬ孤立した守備隊の実情からすれば、50:1が正直なところであろうか。
しかも絶対的な火力・補給力の差、航空機の有無を考えれば、その戦力比は100:1でもまだ甘い、のかもしれない。
しかし、中国・雲南遠征軍の将卒は、打ち続く挫折と莫大な損害に、痛く焦燥していた。
焦燥に駆られ、憤懣を腹中に溜め込んでいたのは、国民政府の主席を務める最高指導者蒋介石とて同じである。
膨大な物資援助、資金援助、技術指導、戦術指導を受けている米英に対し、いくら手強いとはいえごく僅かな日本兵を相手にこの有様では顔向けができない・・・恥ずかしい・・・・それが蒋介石の本音、であったのだ。
たまりかねた蒋介石は、全軍の将帥たちに向けて、激しい叱咤の声明を発した。
実はこの声明を伝える無電は、同時に日本軍にも傍受され、解読されていたのである。
そして、内容を伝え聞いた日本軍人を感激させた。
この声明は、以来「蒋介石の逆感状」と呼ばれている。
「戦局の全般は有利に展開し、勝利の光は前途に輝いているが彼岸に達するまでの荊(いばら)の道はなお遥かに遠い。
各方面における戦績を見ると、予の期待に副(そ)わないものが非常に多い。
ビルマの日本軍を模範にせよ。
ミイトキーナにおいて、拉孟において、騰越(とうえつ)において、日本軍の発揮した善戦健闘に比べてわが軍の戦績がどんなに見劣りするか。
予は甚だ遺憾に堪えない。
将兵一同、さらに士気を振起し、訓練を重ね、戦法を改め、苦難欠乏を甘受克服して大敵の打倒に邁進せんことを望む。」
拉孟において、騰越(とうえつ)において、ミイトキーナにおいて・・・・・その実勢力に比して、信じがたいほどの反発力を示す日本軍守備隊。
実際に最前線で日本軍と戦っている将兵にとっても、日本の陸軍士官学校卒業生である蒋介石にとっても、日本軍の極めて高い士気、恐るべき戦闘力、頑強さは、想像を絶していた。
拉孟を取り囲んでいる雲南遠征軍は、支那中央部で日本軍と戦っている軍とは違い、米軍のジョセフ・スチルウェル中将により米式に徹底的に鍛えられ、質・量ともに万全な支援を受け、士気・練度・装備すべてにおいて格段に優れた集団、大集団なのである。
決して弱い軍隊ではない。
しかし、彼らが暴風のような猛攻を幾度繰り返しても、孤立無援の拉孟陣地は、いまだ陥ちない。
いや、陥ちないどころか、わずかな一角さえ奪うことを許さないのだ。
そして七月二十日、過去最大の集中砲火が戦いの火蓋を切った。
拉孟守備隊の頭上には、ありとあらゆる砲弾、鉄塊が無数に撃ち込まれ、舞い上がる砂塵と土煙、硝煙であたりは薄暮の様相を呈す。壕内に潜む守備隊将兵は、湿気と暑熱のなかじっと耐える。遠巻きにする敵は、徐々に包囲網を狭め、すきあらば、と突撃の好機を窺う。
わが守備隊の抵抗はここでも頑強を極め、寡兵ながら敵の巨大戦力の侵攻を、あくまで峻拒し続けた。
雲南遠征軍も、陣地上空から日本兵に対し、投降を勧告するビラをばらまいた。
一読した守備隊の将兵は、腹を抱えて大笑いしたという。
八月を迎えた。
わが拉孟守備隊の兵員は、負傷兵を加えても、もはや三百人に満たない。
彼我の攻防が、小競り合いを経て本格化してからもすでに二ヶ月がたち、守備隊の兵力は四分の一以下にまで減少している。
八月二十六日
この日、蒋介石は雲南省の省都昆明にいた。そして拉孟、騰越、ミイトキーナを包囲攻撃している自軍に向け、督励の訓電を発したのである。
「騰越および拉孟においては、わが優秀近代化の国軍をもってしても、(日本軍守備隊は)尚孤塁を死守しあり。
・・・かくては国軍の名誉を失墜するのみならず中国の世界的地位をも疑わしむるに至り、・・・かのミイトキーナ、拉孟、騰越を死守しある日本軍人精神は東洋民族の誇りたるを学び、範としてわが国軍の名誉を失墜せざらんことを望む。」
「蒋介石の逆感状」その第二弾、とも言うべきものである。
もちろんわが軍にも傍受解読され、ビルマ方面軍将兵の士気をおおいに高めた。
遂に、日本守備隊全滅。翌昭和十九年九月九日、蒋介石は、再び全軍に向け訓令を発した。
「拉孟の日本軍を範とせよ。」<
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.