「脱亜入欧」-林思雲(Lin Si Yun)4
投稿者: k_g_y_7_naoko 投稿日時: 2007/09/26 21:41 投稿番号: [22963 / 73791]
(三)
明治維新の日本は西洋に積極的に学んだが、当時、満清政府は頑迷固陋で西洋に学ぼうとしなかった、このことが近代中国の遅れをもたらしたという観点が、こんにちの中国で一般的となっている。しかし率直に言えば、この観点は半分の真実しか伝えていない。当時の満清政府が西洋に学んだ態度にはかなり積極的なものがあったからだ。洋務運動はその明らかな例の一つである。
あの当時、中国人は当初、中国が西洋に負けたのはただ兵器の質によるものにすぎず、中国という国家の体制には何も問題はないと考えていた。だから“軍事救国論”が出てきた。これが洋務運動とも呼ばれたものにほかならない。
「中国ノ文武制度ハ事事ニ遠ク西人ノ上ニ出デテ、独リ火器ノ万(けっし)テ及ブ能ワザルノミ。・・・・・・中国ガ自強スルヲ欲サバ、則チ外国ノ利器ヲ学習スルニ如クハ莫ク、外国ノ利器ヲ学習スルヲ欲サバ制器ノ器ヲ覓(もと)ムルニ如クハ莫シ。其ノ法ヲ師(マナ)ブモ、尽(ことごと)クハ其ノ人ヲ用イルヲ必セズ」と、李鴻章は述べている(総理衙門宛書簡。同治三・1864年)
洋務運動は“軍事救国論”をその基礎とするものであった以上、西洋の軍事技術を習得することで自国を強化するという試みとなった。 中国で洋務運動が開始されたのは日本より早く、規模も日本と比較して大きい。
1863年に李鴻章は三カ所の洋砲局を上海に設置している。さらに李は1865年には英米から二つの兵器工場を買収して江南機器廠を誕生させた。清朝政府は上海の関税収入の2割(銀60余万兩)を年経費に当てることにした。この工場は銃砲および弾薬製造を主としたが、船舶を製造し、さらには翻訳館も付属して設けられていた。1866年には左宗棠が福州の馬尾において福州船政局と馬尾船廠を設立し、福建の関税収入の4割がこの費用として当てられている。馬尾船廠が製造した最初の輪船〔訳注・蒸気船〕は1869年1月10日に竣工した。北洋・南洋・広東・福建各水師〔訳注・海軍〕の擁していた88隻の軍艦のうち30隻が馬尾船廠で製造された。のち甲午海戦〔訳注・日清戦争の黄海海戦〕に参加することになる排水量1,560トンの揚武もまた馬尾船廠で作られたものだった。
明治維新が1868年に起こったことを考えれば、中国の洋務派が西洋の軍事技術を学んで自強運動に乗り出していたのは日本より先だっていた。中国は海軍の近代化に全力をあげた。19世紀の80年代において、日本海軍が戦艦数24、内訳でいえば3,000トン級3隻、2,000トン級2隻、総トン数3万トンであったのに対して、中国の北洋海軍は戦艦数18で内訳が7,000トン級2隻、2,000トン級5隻、総トン数3万トンである。軍艦の質からいえば中国は日本を凌駕している。なかでも7,000トン級の定遠と鎮遠は当時のアジアで最高の戦艦だったのだから。
甲午戦争の失敗は、軍事強国を唱えた洋務運動は徹底的な失敗を告げるものだった。このことで、日本が中国を破ったのは日本が西洋式の国家体制を採用していたからであることを人びとに認識させ、“体制救国論”が声高く唱えられる結果を招く。
“体制救国論”は国家体制の改革によって富国強兵が実現されるという論であり、のちに戊戌変法に繋がる。もっとも戊戌変法は失敗に終わった。しかし清朝廷は1901年以降、“新政”を行って、基本的には戊戌変法の考え方を採用して国家の体制に重大な改革を加えている。
しかし中国では日本のような富国強兵を実現しなかった。それはなぜなのだろう。
甲午戦争以前の30年間、中国と日本とはともに西洋に学び、どちらも西洋の先進技術を積極的に取り入れた。だが西洋に学ぶ動機が両国では完全に異なっていたからである。
日本が西洋に学んだのはそれ以前の古い文明を棄てて西洋の新文明を全面的に導入するためだった。つまりいわゆる全盤西化〔訳注・全面的西洋化〕である。だが中国が西洋に学んだのは中国の中華文明を保持するためであり、富国強兵を目指したのは西洋文明からおのれを護るために自国を要塞化するためだった。
<続く>
明治維新の日本は西洋に積極的に学んだが、当時、満清政府は頑迷固陋で西洋に学ぼうとしなかった、このことが近代中国の遅れをもたらしたという観点が、こんにちの中国で一般的となっている。しかし率直に言えば、この観点は半分の真実しか伝えていない。当時の満清政府が西洋に学んだ態度にはかなり積極的なものがあったからだ。洋務運動はその明らかな例の一つである。
あの当時、中国人は当初、中国が西洋に負けたのはただ兵器の質によるものにすぎず、中国という国家の体制には何も問題はないと考えていた。だから“軍事救国論”が出てきた。これが洋務運動とも呼ばれたものにほかならない。
「中国ノ文武制度ハ事事ニ遠ク西人ノ上ニ出デテ、独リ火器ノ万(けっし)テ及ブ能ワザルノミ。・・・・・・中国ガ自強スルヲ欲サバ、則チ外国ノ利器ヲ学習スルニ如クハ莫ク、外国ノ利器ヲ学習スルヲ欲サバ制器ノ器ヲ覓(もと)ムルニ如クハ莫シ。其ノ法ヲ師(マナ)ブモ、尽(ことごと)クハ其ノ人ヲ用イルヲ必セズ」と、李鴻章は述べている(総理衙門宛書簡。同治三・1864年)
洋務運動は“軍事救国論”をその基礎とするものであった以上、西洋の軍事技術を習得することで自国を強化するという試みとなった。 中国で洋務運動が開始されたのは日本より早く、規模も日本と比較して大きい。
1863年に李鴻章は三カ所の洋砲局を上海に設置している。さらに李は1865年には英米から二つの兵器工場を買収して江南機器廠を誕生させた。清朝政府は上海の関税収入の2割(銀60余万兩)を年経費に当てることにした。この工場は銃砲および弾薬製造を主としたが、船舶を製造し、さらには翻訳館も付属して設けられていた。1866年には左宗棠が福州の馬尾において福州船政局と馬尾船廠を設立し、福建の関税収入の4割がこの費用として当てられている。馬尾船廠が製造した最初の輪船〔訳注・蒸気船〕は1869年1月10日に竣工した。北洋・南洋・広東・福建各水師〔訳注・海軍〕の擁していた88隻の軍艦のうち30隻が馬尾船廠で製造された。のち甲午海戦〔訳注・日清戦争の黄海海戦〕に参加することになる排水量1,560トンの揚武もまた馬尾船廠で作られたものだった。
明治維新が1868年に起こったことを考えれば、中国の洋務派が西洋の軍事技術を学んで自強運動に乗り出していたのは日本より先だっていた。中国は海軍の近代化に全力をあげた。19世紀の80年代において、日本海軍が戦艦数24、内訳でいえば3,000トン級3隻、2,000トン級2隻、総トン数3万トンであったのに対して、中国の北洋海軍は戦艦数18で内訳が7,000トン級2隻、2,000トン級5隻、総トン数3万トンである。軍艦の質からいえば中国は日本を凌駕している。なかでも7,000トン級の定遠と鎮遠は当時のアジアで最高の戦艦だったのだから。
甲午戦争の失敗は、軍事強国を唱えた洋務運動は徹底的な失敗を告げるものだった。このことで、日本が中国を破ったのは日本が西洋式の国家体制を採用していたからであることを人びとに認識させ、“体制救国論”が声高く唱えられる結果を招く。
“体制救国論”は国家体制の改革によって富国強兵が実現されるという論であり、のちに戊戌変法に繋がる。もっとも戊戌変法は失敗に終わった。しかし清朝廷は1901年以降、“新政”を行って、基本的には戊戌変法の考え方を採用して国家の体制に重大な改革を加えている。
しかし中国では日本のような富国強兵を実現しなかった。それはなぜなのだろう。
甲午戦争以前の30年間、中国と日本とはともに西洋に学び、どちらも西洋の先進技術を積極的に取り入れた。だが西洋に学ぶ動機が両国では完全に異なっていたからである。
日本が西洋に学んだのはそれ以前の古い文明を棄てて西洋の新文明を全面的に導入するためだった。つまりいわゆる全盤西化〔訳注・全面的西洋化〕である。だが中国が西洋に学んだのは中国の中華文明を保持するためであり、富国強兵を目指したのは西洋文明からおのれを護るために自国を要塞化するためだった。
<続く>
これは メッセージ 22960 (k_g_y_7_naoko さん)への返信です.