スーダンの名はアラブの中で別格ですが?
投稿者: yokokaratatehe 投稿日時: 2007/06/23 17:23 投稿番号: [19130 / 73791]
>シナはさぁ〜、カミやスーダン、テロ国家、テロ支援国家と別の組織を作った方がいいんでないかい!シモはその組織に入れてもらいなさい!キミ達得意の「おでこを床にこすりつける」パーフォーマンスを行ってさぁ〜。
それこそチョーセンの番付に相応しい!<
スーダンって、アラブの中では、かなり格が上で、反欧米、反キリスト教、原理主義の中では、別格です。
何故なら、19世紀末に、マフディーの反乱を起こして、スーダンを植民地支配していたエジプトと、さらに、エジプトの後を継いで軍事介入してきたイギリス軍をことごとく打ち破った国だからです。イギリス軍をスーダン各地で、面白いように撃破。機動的な戦いが得意でした。清朝の太平天国の乱で、多国籍軍とともに戦ったゴードン将軍もここで戦死。
今でも、イラクでは、バクダットやサダムシティ、バスラとかで、「マフディー軍団」と名乗って暴れている連中がいるのは、元を辿ると、19世紀に唯一、英軍をコテンパンにやっつけた「マフディ軍」にあやかっています。
戦いもせず、日本から独立させてもらったり、その独立を自分で放棄して併合を頼んできたり、日本の統治下でノンビリ4分の1世紀以上、日本万歳ばかりで過ごしてきた朝鮮なんかと一緒にはできませんよ。
戦後だって、要するにソ連と米国に分割占領されて、そのままですからね。
一緒にされたら、スーダンのマフディ軍の伝統、歴史が泣く。
>19世紀初めにエジプトのムハンマド・アリー朝に征服されたが、1883年にムハンマド・アフマドを指導者とするイスラム原理主義抵抗運動「マフディーの乱」でエジプト軍を撃退し、マフディー国家が建設された。
1898年に至り、エジプトとイギリスがマフディー国家を制圧し、1899年から両国による共同統治に置かれた。1954年自治政府が発足し、1956年1月1日に独立した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/スーダン
http://homepage2.nifty.com/shworld/04_strand/1899_gordon/gordon.html
>マフディー軍のハルツーム占領。 1885年1月26日。
エジプト領スーダン ・ 首都ハルツーム。
回教原理主義者 マフディー ・ ムハンマド ・ アフマド 率いる叛乱軍の攻囲下に在った ハルツーム は、 是の日・・・。数万からなるマフディー軍の総攻撃を受けて陥落。
エジプト軍守備隊は全滅した。
エジプトの宗主国的立場に在った英国が、 事態収拾の切札として派遣した チャールズ ・ ゴードン将軍 もまた、 壮絶な戦死を遂げる。享年 53歳であった。
マフディー軍が、 燎原の火の勢いで、 スーダン全土を席捲しつつある情勢下・・・。
英国政府は、 軍事介入の意思を持っていなかったが、 極めて困難な問題に直面していた。まさに・・・マフディー軍の重囲に陥らんとしている首都ハルツームから、 エジプト軍民一万数千名を脱出させ、 虐殺の運命を免れしめる事である。
無為無策に終始し、 大量のエジプト人を見殺しにしたとあっては、 宗主国の体面を保てない。窮余の策として取られたのが、 前スーダン総督であるゴードン将軍の派遣であった。
清朝を震撼させた 太平天国の乱 に際して、 常勝軍を率いて、 叛乱軍を鎮圧。スーダン総督時代、 奴隷制度廃止 を断行。
英国からも、 スーダンからも、 英雄視され、 信望の厚いゴードンをして、 ハルツーム撤退の陣頭指揮に当たらしめたら良いと考えたのである。
ところが、 ハルツームに赴いたゴードンは、 現地の情勢から、 居留民の安全な避難を全うする為・・・大規模な保障軍事力が必要と判断、 援軍の派遣を要請し、 本国政府の思惑と真向から対立する。大いなる 誤算 であった。
英国国民の大多数がゴードン支持を表明し、 ゴードン救出の声は日増しに高まっていく。宰相グラッドストン は、 世論に突上げられる格好で、 スーダン派兵の決断を下す。
英国軍は、 水陸両路からハルツームへ進撃を開始し、 マフディー軍との間に戦端が開かれる。しかし、 先遣隊がハルツームに到達した時、 同市は既にマフディー軍の制圧下に在ったのである。
結局、 英国軍はなんら得る所なく撤退。<
今も生きるマフディーの栄光と流れ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070531-00000017-san-int
それこそチョーセンの番付に相応しい!<
スーダンって、アラブの中では、かなり格が上で、反欧米、反キリスト教、原理主義の中では、別格です。
何故なら、19世紀末に、マフディーの反乱を起こして、スーダンを植民地支配していたエジプトと、さらに、エジプトの後を継いで軍事介入してきたイギリス軍をことごとく打ち破った国だからです。イギリス軍をスーダン各地で、面白いように撃破。機動的な戦いが得意でした。清朝の太平天国の乱で、多国籍軍とともに戦ったゴードン将軍もここで戦死。
今でも、イラクでは、バクダットやサダムシティ、バスラとかで、「マフディー軍団」と名乗って暴れている連中がいるのは、元を辿ると、19世紀に唯一、英軍をコテンパンにやっつけた「マフディ軍」にあやかっています。
戦いもせず、日本から独立させてもらったり、その独立を自分で放棄して併合を頼んできたり、日本の統治下でノンビリ4分の1世紀以上、日本万歳ばかりで過ごしてきた朝鮮なんかと一緒にはできませんよ。
戦後だって、要するにソ連と米国に分割占領されて、そのままですからね。
一緒にされたら、スーダンのマフディ軍の伝統、歴史が泣く。
>19世紀初めにエジプトのムハンマド・アリー朝に征服されたが、1883年にムハンマド・アフマドを指導者とするイスラム原理主義抵抗運動「マフディーの乱」でエジプト軍を撃退し、マフディー国家が建設された。
1898年に至り、エジプトとイギリスがマフディー国家を制圧し、1899年から両国による共同統治に置かれた。1954年自治政府が発足し、1956年1月1日に独立した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/スーダン
http://homepage2.nifty.com/shworld/04_strand/1899_gordon/gordon.html
>マフディー軍のハルツーム占領。 1885年1月26日。
エジプト領スーダン ・ 首都ハルツーム。
回教原理主義者 マフディー ・ ムハンマド ・ アフマド 率いる叛乱軍の攻囲下に在った ハルツーム は、 是の日・・・。数万からなるマフディー軍の総攻撃を受けて陥落。
エジプト軍守備隊は全滅した。
エジプトの宗主国的立場に在った英国が、 事態収拾の切札として派遣した チャールズ ・ ゴードン将軍 もまた、 壮絶な戦死を遂げる。享年 53歳であった。
マフディー軍が、 燎原の火の勢いで、 スーダン全土を席捲しつつある情勢下・・・。
英国政府は、 軍事介入の意思を持っていなかったが、 極めて困難な問題に直面していた。まさに・・・マフディー軍の重囲に陥らんとしている首都ハルツームから、 エジプト軍民一万数千名を脱出させ、 虐殺の運命を免れしめる事である。
無為無策に終始し、 大量のエジプト人を見殺しにしたとあっては、 宗主国の体面を保てない。窮余の策として取られたのが、 前スーダン総督であるゴードン将軍の派遣であった。
清朝を震撼させた 太平天国の乱 に際して、 常勝軍を率いて、 叛乱軍を鎮圧。スーダン総督時代、 奴隷制度廃止 を断行。
英国からも、 スーダンからも、 英雄視され、 信望の厚いゴードンをして、 ハルツーム撤退の陣頭指揮に当たらしめたら良いと考えたのである。
ところが、 ハルツームに赴いたゴードンは、 現地の情勢から、 居留民の安全な避難を全うする為・・・大規模な保障軍事力が必要と判断、 援軍の派遣を要請し、 本国政府の思惑と真向から対立する。大いなる 誤算 であった。
英国国民の大多数がゴードン支持を表明し、 ゴードン救出の声は日増しに高まっていく。宰相グラッドストン は、 世論に突上げられる格好で、 スーダン派兵の決断を下す。
英国軍は、 水陸両路からハルツームへ進撃を開始し、 マフディー軍との間に戦端が開かれる。しかし、 先遣隊がハルツームに到達した時、 同市は既にマフディー軍の制圧下に在ったのである。
結局、 英国軍はなんら得る所なく撤退。<
今も生きるマフディーの栄光と流れ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070531-00000017-san-int
これは メッセージ 19129 (ahoruda333 さん)への返信です.