台湾人少年工と靖国神社
投稿者: may7idaho 投稿日時: 2007/02/03 13:45 投稿番号: [12157 / 73791]
比べるのも愚かながら、朝鮮人との品性の違いはどうしようもないですね。
誇りある台湾人。
台湾ある限り、朝鮮人はその誇りがかけらもない姿、惨めさだけが際立っていきます。
台湾の少年工達の言葉と歌。
『鍛えられた不屈の海軍魂があったからこそ、これまで苦難の道を乗り越えて来ることができました』
『六十年心の祖国と慕ひ来し 日本の行方に栄光のあれ』
平成11年(1999年)、靖国神社に合祀、以来、毎年、靖国神社に来ていらっしゃいます。
『昭和六十二年、戒厳令が解除の年に台湾高座会を組織し、その年に台中で第一回聯誼大会を開催し、各区会の廻り持ちで、もう数回になるとのことであった。あの当時から既に五十年が経っている。
「高座で鍛えられた不屈の海軍魂があったからこそ、これまで苦難の道を乗り越えて来ることができました」とうれしいことを言ってくれた。
私にとっては、はじめての台湾であったが、このようにして元少年工の人たちと五十年ぶりの再会を果たし、台湾という素晴らしい国、そこに住む素晴らしい人たちを知ることが出来た。一挙に台湾が身近なものになり、その後の聯誼大会への参加、「台湾少年工と第二の故郷」の出版、更には「高座日台交流の会」の発足にもつながって行くことになった。
慰霊碑
大和市の善徳寺には戦没台湾少年の慰霊碑がある。
高座海軍工廠に勤務していた海軍技手早川金次さんが、空襲により目の前で戦没した数人の台湾少年工を悼み、昭和三十八年に私財を投じて建立したものである。その碑文に「困苦欠乏に耐え克くその責務を全うせり」の語がある。その後、来日した元少年工の人たちはこの地を訪れるようになり、それが相互に高座ゆかりの人たちとの旧交を温める端緒になった。
当時、高座海軍工廠で訓練を受けた台湾少年工は評判が高く、全国から引っぱりだこであった。横須賀、呉、佐世保の海軍工廠をはじめ、三菱重工の名古屋、川西航空機の鳴尾、中島飛行機の太田など各地の軍需工場に派遣され、いい成績を挙げていた。
高座海軍工廠は何度か機銃掃射を受けたが、集中的な爆撃や焼夷弾攻撃を受けたことはない。これは全くの僥倖であったと思う。しかし、その派遣先において多くの犠牲者が出た。そのことを現地に照会するなどして、日数はかかったが戦没台湾少年工の名簿を作成した。
靖国神社の御祭神
海軍軍属としてその責務を全うし、悲運にも戦没した台湾少年工の人たちは海軍軍人と何等変るところはない。この戦没者名簿に基づき、拓大、小田村四郎さんからの適切なアドバイスもあり、靖国神社に合祀の申請手続きを行った。
そして平成十年十月十七日、秋の例大祭の当日に案内を受けて参列したが、その冒頭に宮司の湯沢貞さんから「戦時中に戦没した台湾の方々が合祀される」旨の披露があり、万感胸に迫って身体がふるえるほどの感動をおぼえた。
既に五十数年を経ている。台湾少年工の人たちは日本に来なければ、こんなことにはならなかったかも知れない。
戦没したことは取りかえしのつかないことであるが、今こうして御祭神にその名を連ね、これからは公式の場において慰霊の儀式が行われることになり、それがせめてもの餞けになることが出来ればよいがと祈るような気持ちであった。
その翌年、平成十一年四月、このことを聞いた台湾高座会の人たちが参拝のために来日し、共に昇殿して祭文を奉じ、亡き僚友の霊に祈りを捧げた。
それ以来、毎年の参拝が続いている。
いま御祭神となり、その氏名、戦没の場所、年月日など明らかにし、合祀されている戦没台湾少年工の人たちは六十柱である。
けなげにも務め果せし少年工
散りしこの地にただ涙して佇つ
台湾には台湾高座会をはじめ、日本との親善を願う多くの人たちがいる。台湾で毎年開催される聯誼大会では今も一千人を超える会員が参加し、しかも参加の全員がすべて日本語だけである。こんな素晴らしい大会が世界のどこにあるだろうか。そして今も日本を「第二の故郷」と呼び、「心の祖国」と詠う多くの人たちがいるのである。
年ごとに栄ゆる大和は青春の
夢を育てし第二の故郷
(台南市 蔡 龍鐘)
六十年心の祖国と慕ひ来し
日本の行方に栄光のあれ
(台北市 洪 坤山)』
誇りある台湾人。
台湾ある限り、朝鮮人はその誇りがかけらもない姿、惨めさだけが際立っていきます。
台湾の少年工達の言葉と歌。
『鍛えられた不屈の海軍魂があったからこそ、これまで苦難の道を乗り越えて来ることができました』
『六十年心の祖国と慕ひ来し 日本の行方に栄光のあれ』
平成11年(1999年)、靖国神社に合祀、以来、毎年、靖国神社に来ていらっしゃいます。
『昭和六十二年、戒厳令が解除の年に台湾高座会を組織し、その年に台中で第一回聯誼大会を開催し、各区会の廻り持ちで、もう数回になるとのことであった。あの当時から既に五十年が経っている。
「高座で鍛えられた不屈の海軍魂があったからこそ、これまで苦難の道を乗り越えて来ることができました」とうれしいことを言ってくれた。
私にとっては、はじめての台湾であったが、このようにして元少年工の人たちと五十年ぶりの再会を果たし、台湾という素晴らしい国、そこに住む素晴らしい人たちを知ることが出来た。一挙に台湾が身近なものになり、その後の聯誼大会への参加、「台湾少年工と第二の故郷」の出版、更には「高座日台交流の会」の発足にもつながって行くことになった。
慰霊碑
大和市の善徳寺には戦没台湾少年の慰霊碑がある。
高座海軍工廠に勤務していた海軍技手早川金次さんが、空襲により目の前で戦没した数人の台湾少年工を悼み、昭和三十八年に私財を投じて建立したものである。その碑文に「困苦欠乏に耐え克くその責務を全うせり」の語がある。その後、来日した元少年工の人たちはこの地を訪れるようになり、それが相互に高座ゆかりの人たちとの旧交を温める端緒になった。
当時、高座海軍工廠で訓練を受けた台湾少年工は評判が高く、全国から引っぱりだこであった。横須賀、呉、佐世保の海軍工廠をはじめ、三菱重工の名古屋、川西航空機の鳴尾、中島飛行機の太田など各地の軍需工場に派遣され、いい成績を挙げていた。
高座海軍工廠は何度か機銃掃射を受けたが、集中的な爆撃や焼夷弾攻撃を受けたことはない。これは全くの僥倖であったと思う。しかし、その派遣先において多くの犠牲者が出た。そのことを現地に照会するなどして、日数はかかったが戦没台湾少年工の名簿を作成した。
靖国神社の御祭神
海軍軍属としてその責務を全うし、悲運にも戦没した台湾少年工の人たちは海軍軍人と何等変るところはない。この戦没者名簿に基づき、拓大、小田村四郎さんからの適切なアドバイスもあり、靖国神社に合祀の申請手続きを行った。
そして平成十年十月十七日、秋の例大祭の当日に案内を受けて参列したが、その冒頭に宮司の湯沢貞さんから「戦時中に戦没した台湾の方々が合祀される」旨の披露があり、万感胸に迫って身体がふるえるほどの感動をおぼえた。
既に五十数年を経ている。台湾少年工の人たちは日本に来なければ、こんなことにはならなかったかも知れない。
戦没したことは取りかえしのつかないことであるが、今こうして御祭神にその名を連ね、これからは公式の場において慰霊の儀式が行われることになり、それがせめてもの餞けになることが出来ればよいがと祈るような気持ちであった。
その翌年、平成十一年四月、このことを聞いた台湾高座会の人たちが参拝のために来日し、共に昇殿して祭文を奉じ、亡き僚友の霊に祈りを捧げた。
それ以来、毎年の参拝が続いている。
いま御祭神となり、その氏名、戦没の場所、年月日など明らかにし、合祀されている戦没台湾少年工の人たちは六十柱である。
けなげにも務め果せし少年工
散りしこの地にただ涙して佇つ
台湾には台湾高座会をはじめ、日本との親善を願う多くの人たちがいる。台湾で毎年開催される聯誼大会では今も一千人を超える会員が参加し、しかも参加の全員がすべて日本語だけである。こんな素晴らしい大会が世界のどこにあるだろうか。そして今も日本を「第二の故郷」と呼び、「心の祖国」と詠う多くの人たちがいるのである。
年ごとに栄ゆる大和は青春の
夢を育てし第二の故郷
(台南市 蔡 龍鐘)
六十年心の祖国と慕ひ来し
日本の行方に栄光のあれ
(台北市 洪 坤山)』
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.