自発的に国権すべてを日本に譲渡した事実
投稿者: may7idaho 投稿日時: 2007/01/21 12:09 投稿番号: [11531 / 73791]
悪いのは、日本のせい、米国のせい、ロシアのせい、自分達は弱かった、力がなかった、どうしようもなかった・・・・
ひとのせいと、自分達への大甘な言い訳で1世紀以上・・・・
他国の軍を自ら引き入れ自国を自滅させた李氏朝鮮を入れれば、6世紀に及ぶ独立なき民族。
元歴史教師である朴正煕元大統領が、あけすけに認め、嘆いたように、
反植民地闘争、独立戦争を戦い抜いた国々が多いアジア(ベトナム、フィリピンのように、長期間、複数の宗主国に粘り強く戦ったところもある)の中で、唯一と言っていいほど、惨め極まりない朝鮮の歴史。
未だに、ソ連と米国に、何も抵抗せずにそのまま分割されて現在に至り、それすら解決できない、解決しようとすらしない惨めさ。
『韓日合邦の魚
「網も張る前に魚が飛び込んできた」−−。
1910年8月、韓日合邦の前夜の秘史についてこのように語ったのは、当時の統監府外事局長、小松緑だった。心痛い証言だ。
それは決して文学的修辞ではなく、惨めな無能の末、合邦を決めた91年前の我々の姿だったことの確認であるからだ。明日、韓国は庚戌(キョンスル)国恥日(韓日合邦)を迎える。
この経路を振り返るに当たって、まずは「合邦の魚」の主役から見てみよう。本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる李人稙が密使として動いたのだ。
これを理由に、李完用は、いつまでたっても韓国の逆賊と言われ続けるのか。
1979年にひ孫の手で墓を廃棄されたことも、当然とされるべき人物なのか。しかし、真実は小学校の教科書のように簡単でない。その中にある「複雑な真実」を明らかにしてくれたのが、尹?漢(ユン・ドクハン)著『李完用評伝』(中心、1999)だ。同書は次のように問いかける。
「我々は、余りにもたやすく売国奴像を作り上げ、批判してきた。反面教師としての李完用研究も、全部で論文が4本出たに過ぎなかった。そのような中で我々は、李完用という人物に隠された自分らの姿から、わざと顔を背けてきた。」
実際、徐載弼の「独立新聞」には、李完用への批判が1行たりともない。
我々がこれまで顔を背けてきた李完用の姿は、その他にも多い。だとすれば、乙巳条約以後、広い視野の外交通から売国の親日派へと大転落した李完用をどのように解釈すればいいのだろう。』
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=18651&servcode=100&code=100
分かっているのに、まだ、こんな議論を続けようとする醜悪な朝鮮人。
『「決してそうではない」というのが専門家らの指摘だ』
惨めですね。
『高宗純宗実録』の「気まずい」インターネット公開
「ここに韓国の統治権を、従前より親しく信じ、頼りに仰いできた隣国大日本皇帝陛下に譲与し、外に東洋の平和を強固にし、内に八域(朝鮮全土)の民生を保全しようとするので、爾(なんじ)ら大小の臣民は…(中略)…煩わしい騒乱を起こさず…」
『純宗実録』の一番最後となる隆煕4年(1910年)8月29日条。まさに韓日併合当日の記事で、純宗皇帝はこのように語っている。この前後脈絡のない記事は、読む人をただただ驚かせる。韓国の自発的な意志により、国権が譲り渡されたとでもいうのだろうか。だが、「決してそうではない」というのが専門家らの指摘だ。
内容はさらに深刻だ。日帝の侵略と抗日運動に関する内容は大部分が意図的に抜け落とされているため、両実録だけを読んだ場合、大韓帝国が自ら国を日本に譲り渡したかのような誤解をすることもあり得るのだ。
乙未事変(閔妃暗殺)を記録した1895年8月20日条は「卯の刻(午前5時から7時)に王妃が坤寧閤で崩御した」と記しているだけで、犯人が誰なのかについては徹底的に封印している。
また、1909年10月26日条を見ると、皇太子が皇帝に伊藤博文の死亡を伝える電報を送り、「我が国の者の凶手にかかり、殺害されたことに驚きを禁じ得ない」と報告している。甚だしくは、内閣が伊藤の死を哀悼しようと、4日間にわたりソウルでの音楽と歌を禁止したという記述まである。』
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/01/21/20070121000000.html
ひとのせいと、自分達への大甘な言い訳で1世紀以上・・・・
他国の軍を自ら引き入れ自国を自滅させた李氏朝鮮を入れれば、6世紀に及ぶ独立なき民族。
元歴史教師である朴正煕元大統領が、あけすけに認め、嘆いたように、
反植民地闘争、独立戦争を戦い抜いた国々が多いアジア(ベトナム、フィリピンのように、長期間、複数の宗主国に粘り強く戦ったところもある)の中で、唯一と言っていいほど、惨め極まりない朝鮮の歴史。
未だに、ソ連と米国に、何も抵抗せずにそのまま分割されて現在に至り、それすら解決できない、解決しようとすらしない惨めさ。
『韓日合邦の魚
「網も張る前に魚が飛び込んできた」−−。
1910年8月、韓日合邦の前夜の秘史についてこのように語ったのは、当時の統監府外事局長、小松緑だった。心痛い証言だ。
それは決して文学的修辞ではなく、惨めな無能の末、合邦を決めた91年前の我々の姿だったことの確認であるからだ。明日、韓国は庚戌(キョンスル)国恥日(韓日合邦)を迎える。
この経路を振り返るに当たって、まずは「合邦の魚」の主役から見てみよう。本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる李人稙が密使として動いたのだ。
これを理由に、李完用は、いつまでたっても韓国の逆賊と言われ続けるのか。
1979年にひ孫の手で墓を廃棄されたことも、当然とされるべき人物なのか。しかし、真実は小学校の教科書のように簡単でない。その中にある「複雑な真実」を明らかにしてくれたのが、尹?漢(ユン・ドクハン)著『李完用評伝』(中心、1999)だ。同書は次のように問いかける。
「我々は、余りにもたやすく売国奴像を作り上げ、批判してきた。反面教師としての李完用研究も、全部で論文が4本出たに過ぎなかった。そのような中で我々は、李完用という人物に隠された自分らの姿から、わざと顔を背けてきた。」
実際、徐載弼の「独立新聞」には、李完用への批判が1行たりともない。
我々がこれまで顔を背けてきた李完用の姿は、その他にも多い。だとすれば、乙巳条約以後、広い視野の外交通から売国の親日派へと大転落した李完用をどのように解釈すればいいのだろう。』
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=18651&servcode=100&code=100
分かっているのに、まだ、こんな議論を続けようとする醜悪な朝鮮人。
『「決してそうではない」というのが専門家らの指摘だ』
惨めですね。
『高宗純宗実録』の「気まずい」インターネット公開
「ここに韓国の統治権を、従前より親しく信じ、頼りに仰いできた隣国大日本皇帝陛下に譲与し、外に東洋の平和を強固にし、内に八域(朝鮮全土)の民生を保全しようとするので、爾(なんじ)ら大小の臣民は…(中略)…煩わしい騒乱を起こさず…」
『純宗実録』の一番最後となる隆煕4年(1910年)8月29日条。まさに韓日併合当日の記事で、純宗皇帝はこのように語っている。この前後脈絡のない記事は、読む人をただただ驚かせる。韓国の自発的な意志により、国権が譲り渡されたとでもいうのだろうか。だが、「決してそうではない」というのが専門家らの指摘だ。
内容はさらに深刻だ。日帝の侵略と抗日運動に関する内容は大部分が意図的に抜け落とされているため、両実録だけを読んだ場合、大韓帝国が自ら国を日本に譲り渡したかのような誤解をすることもあり得るのだ。
乙未事変(閔妃暗殺)を記録した1895年8月20日条は「卯の刻(午前5時から7時)に王妃が坤寧閤で崩御した」と記しているだけで、犯人が誰なのかについては徹底的に封印している。
また、1909年10月26日条を見ると、皇太子が皇帝に伊藤博文の死亡を伝える電報を送り、「我が国の者の凶手にかかり、殺害されたことに驚きを禁じ得ない」と報告している。甚だしくは、内閣が伊藤の死を哀悼しようと、4日間にわたりソウルでの音楽と歌を禁止したという記述まである。』
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/01/21/20070121000000.html
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.