Re: あの蘇我氏を平民と言い張るボケ
投稿者: japanpoors 投稿日時: 2009/11/04 21:29 投稿番号: [58 / 101]
橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位し、用明天皇となる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位に就きたがっており、不満を抱いた。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝・敏達天皇の寵臣三輪逆(みわのさかう)を殺害させた。
用明天皇2年4月(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。
程なく用明天皇が崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。馬子軍は河内国渋川郡の守屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度撃退した。廐戸皇子が四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢をかけ、迹見赤檮(とみのいちい)が守屋を射殺し、馬子は勝利した。
同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。炊屋姫は皇太后となった。
崇峻天皇元年(588年)馬子は善信尼らを百済へ留学させた。
崇峻天皇4年(591年)崇峻天皇は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った。
政治実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。崇峻天皇5年10月(592年)、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集した。馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇を殺害することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。
馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とした。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。馬子は聖徳太子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入した。
推古天皇4年(596年)馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立した。
推古天皇20年(612年)堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を行った。堅塩媛は「皇太夫人」と尊称され、諸皇子、群臣が誄した。蘇我氏の絶大な権勢を示した。
推古天皇28年(620年)聖徳太子と共に天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記を記す。
推古天皇30年(622年)聖徳太子が死去した。馬子は聖徳太子と協調した一方、聖徳太子の進めた天皇権力の強化を警戒していた。
推古天皇31年(623年)新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢した。
推古天皇32年(624年)馬子は元は蘇我氏の本居で天皇家の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求したが、推古天皇に「自分は蘇我氏の出で、大臣は伯父だから大臣の要求は何でも聞いたが、これだけは聞き入れられない」と拒否された。
推古天皇34年(626年)馬子は死去した。
馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳だとする説が有力である。 また、同古墳の西数百mの位置にある島庄遺跡について、邸宅の一部だったとする説がある。
用明天皇2年4月(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。
程なく用明天皇が崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。馬子軍は河内国渋川郡の守屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度撃退した。廐戸皇子が四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢をかけ、迹見赤檮(とみのいちい)が守屋を射殺し、馬子は勝利した。
同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。炊屋姫は皇太后となった。
崇峻天皇元年(588年)馬子は善信尼らを百済へ留学させた。
崇峻天皇4年(591年)崇峻天皇は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った。
政治実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。崇峻天皇5年10月(592年)、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集した。馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇を殺害することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。
馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とした。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。馬子は聖徳太子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入した。
推古天皇4年(596年)馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立した。
推古天皇20年(612年)堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を行った。堅塩媛は「皇太夫人」と尊称され、諸皇子、群臣が誄した。蘇我氏の絶大な権勢を示した。
推古天皇28年(620年)聖徳太子と共に天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記を記す。
推古天皇30年(622年)聖徳太子が死去した。馬子は聖徳太子と協調した一方、聖徳太子の進めた天皇権力の強化を警戒していた。
推古天皇31年(623年)新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢した。
推古天皇32年(624年)馬子は元は蘇我氏の本居で天皇家の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求したが、推古天皇に「自分は蘇我氏の出で、大臣は伯父だから大臣の要求は何でも聞いたが、これだけは聞き入れられない」と拒否された。
推古天皇34年(626年)馬子は死去した。
馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳だとする説が有力である。 また、同古墳の西数百mの位置にある島庄遺跡について、邸宅の一部だったとする説がある。
これは メッセージ 57 (numbergl さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a4a2a4nai2fbbaa4rjbfl1a4h8c0a4a4da5a4ka5dca51_1/58.html