「思いやり」で世界平和が構築できるのか
投稿者: etranger3_01 投稿日時: 2003/02/21 11:27 投稿番号: [82 / 8733]
ソース:[IPS] http://www.ipsnews.net/jp/2002/12/25.html
> 「複雑な国際情勢下にあって、われわれは一つの大義を取り上げ、それに反対し、消し去ろうとまでしている。しかし、これは真実を見詰めず、現実への理解を欠いた行為である」とダライ・ラマ14世は強調するとともに、「国際社会で最も重要なのは『相互依存』であり、これこそが現実なのだ」と訴えた。
たしかにグローバル化やリージョナル化が進む国際社会において「相互依存」が繁栄のための重要なファクターとなるのはわかります。しかし果たして“それだけ”が現実であり真実なのでしょうか。相互依存“のみ”を平和構築のために是とするのは、一方に偏った考えであることは否めないのでしょうか。
すべての考えに対して寛容であるはずの宗教が、結局は1つのオプションとしての軍事行動を排斥している。これは大いなる矛盾であり、私があらゆる宗教の普遍性というものを信じれない所以でもあります。そう、私は無心論者です。信仰の自由を否定はしませんが、宗教の完全性というものには懐疑的です。ゆえに、私はあらゆる宗教を信じないことで私なりの信仰の自由を行使しています。
本当に現実的に大勢を捉えるのならば、あらゆるオプションを考慮して可能性は排除してはならないはずです。「思いやり」(ヒューマニズム)だけではやはり限界がある。かといって、軍事攻撃だけでは正当性に欠き、また破壊的すぎる。その中間というものはないのか。私はずっとその道を探っています。ダライラマ氏の訴える「相互依存が現実である」という結論には異を唱えます。それだけでこの世が成り立っているわけではないからです。
>西南アジア地域などの危機状態に対し、ダライ・ラマ14世は「思いやり」の重要性を強調し、さらに、「『思いやり』はチベット人だけが持つものではない。世界の主要な宗教はすべて思いやり、許すこと、忍耐、そして自尊心を説いている」と訴えた。この発言はイラクへの攻撃準備を進める米国に対する戒めのようにも受け取れる。
たしかにキリスト教にも「慈悲の心」の教えがあります。しかし、すべての国でチベットのように宗教が生活・政治すべての中心となっているわけじゃないように、キリスト教立国といっても差し支えのない米国でも、敬虔なクリスチャンはいますが敬虔なゆえの暴力(堕胎クリニック襲撃など)や敬虔でないゆえの無関心(だが他宗教に対しては排他・差別的)などが生じており、それが多民族国家米国の1つの「現実」となっています。宗教に根ざした戒めの言葉は、米国民には届かないと思います。
米国民を動かすのは合理性(ロジック)です。ただ、その合理性が独断的になるきらいがあり、他からしてみればまったく非合理的かつ身勝手に見られることがある。そのような人々に向けて宗教に根ざした戒めの言葉を発しても、「非合理的」=非現実的という考えのもとに一蹴されてしまうでしょう。米国民を反戦に導くために必要なのは、彼らを納得させるロジックであり、世界が模索しなければいけないのはまさにそこだと思います。ロジックでしか動かない国民というのを目前にして、ヒューマニズムのみで説き伏せようとするのは、それこそ「非現実的」なアプローチのように思えます。
> 米国での同時多発テロ事件の発生直後、ダライ・ラマ14世はブッシュ米大統領に対し、「暴力の行使が正しい行為であり、また、長期的に見て米国と米国民の本当の利益になるのかどうかを熟慮してほしい」と要請した。
これは、ロジックを説いてますね。問題はどう“長期的に利益にならない”ことを具体的に説明するか、です。米国の圧倒的な力がある背景では、米国民には「何事も米国の国益に則さないようには進まないだろう」という慢心に溢れた安心感があります。これをどう打ち砕くか。どうその方向性を転換させて実践して見せるか。これが国際社会に課せられた課題なのではないでしょうか。米国の通り一辺倒の主張を崩すには、このラショナル・アプローチが最も妥当に思えます。
______________________________
訳/文責: etranger3_01(連絡/詳細は上記の投稿者名からどうぞ)
Copyright (C) 2003 etranger3_01 All rights reserved.
> 「複雑な国際情勢下にあって、われわれは一つの大義を取り上げ、それに反対し、消し去ろうとまでしている。しかし、これは真実を見詰めず、現実への理解を欠いた行為である」とダライ・ラマ14世は強調するとともに、「国際社会で最も重要なのは『相互依存』であり、これこそが現実なのだ」と訴えた。
たしかにグローバル化やリージョナル化が進む国際社会において「相互依存」が繁栄のための重要なファクターとなるのはわかります。しかし果たして“それだけ”が現実であり真実なのでしょうか。相互依存“のみ”を平和構築のために是とするのは、一方に偏った考えであることは否めないのでしょうか。
すべての考えに対して寛容であるはずの宗教が、結局は1つのオプションとしての軍事行動を排斥している。これは大いなる矛盾であり、私があらゆる宗教の普遍性というものを信じれない所以でもあります。そう、私は無心論者です。信仰の自由を否定はしませんが、宗教の完全性というものには懐疑的です。ゆえに、私はあらゆる宗教を信じないことで私なりの信仰の自由を行使しています。
本当に現実的に大勢を捉えるのならば、あらゆるオプションを考慮して可能性は排除してはならないはずです。「思いやり」(ヒューマニズム)だけではやはり限界がある。かといって、軍事攻撃だけでは正当性に欠き、また破壊的すぎる。その中間というものはないのか。私はずっとその道を探っています。ダライラマ氏の訴える「相互依存が現実である」という結論には異を唱えます。それだけでこの世が成り立っているわけではないからです。
>西南アジア地域などの危機状態に対し、ダライ・ラマ14世は「思いやり」の重要性を強調し、さらに、「『思いやり』はチベット人だけが持つものではない。世界の主要な宗教はすべて思いやり、許すこと、忍耐、そして自尊心を説いている」と訴えた。この発言はイラクへの攻撃準備を進める米国に対する戒めのようにも受け取れる。
たしかにキリスト教にも「慈悲の心」の教えがあります。しかし、すべての国でチベットのように宗教が生活・政治すべての中心となっているわけじゃないように、キリスト教立国といっても差し支えのない米国でも、敬虔なクリスチャンはいますが敬虔なゆえの暴力(堕胎クリニック襲撃など)や敬虔でないゆえの無関心(だが他宗教に対しては排他・差別的)などが生じており、それが多民族国家米国の1つの「現実」となっています。宗教に根ざした戒めの言葉は、米国民には届かないと思います。
米国民を動かすのは合理性(ロジック)です。ただ、その合理性が独断的になるきらいがあり、他からしてみればまったく非合理的かつ身勝手に見られることがある。そのような人々に向けて宗教に根ざした戒めの言葉を発しても、「非合理的」=非現実的という考えのもとに一蹴されてしまうでしょう。米国民を反戦に導くために必要なのは、彼らを納得させるロジックであり、世界が模索しなければいけないのはまさにそこだと思います。ロジックでしか動かない国民というのを目前にして、ヒューマニズムのみで説き伏せようとするのは、それこそ「非現実的」なアプローチのように思えます。
> 米国での同時多発テロ事件の発生直後、ダライ・ラマ14世はブッシュ米大統領に対し、「暴力の行使が正しい行為であり、また、長期的に見て米国と米国民の本当の利益になるのかどうかを熟慮してほしい」と要請した。
これは、ロジックを説いてますね。問題はどう“長期的に利益にならない”ことを具体的に説明するか、です。米国の圧倒的な力がある背景では、米国民には「何事も米国の国益に則さないようには進まないだろう」という慢心に溢れた安心感があります。これをどう打ち砕くか。どうその方向性を転換させて実践して見せるか。これが国際社会に課せられた課題なのではないでしょうか。米国の通り一辺倒の主張を崩すには、このラショナル・アプローチが最も妥当に思えます。
______________________________
訳/文責: etranger3_01(連絡/詳細は上記の投稿者名からどうぞ)
Copyright (C) 2003 etranger3_01 All rights reserved.
これは メッセージ 80 (etranger3_01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1yc0a43a6jbfoba4r4ja4a6a5ha5ta1y_1/82.html