支那人を殺したのは日本軍ではなく支那軍
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2011/11/18 02:17 投稿番号: [2821 / 3350]
支那人を殺したのは日本軍ではなく支那軍だ。
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ニューヨーク・タイムス上海特派員
香港発1937年8月27日付特電
(一部抜粋)
上海の国際租界及び仏特権区域に居住する無力な一般市民を、中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、武力手段または他の抑止策をとることについて何らかの国際的な合意が必要であるということは、上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフ達の一致した見解となっている。
中国軍は、この爆弾は日本軍機から投下されたものである、と宣伝することによって責任を拒否した。しかしながら今や、これらの爆弾は両方とも中国が伊から購入したイタリア製のものであることが判明している、この判明した事実について、米英の現地の海軍調査官の意見は一致している。そしてイタリア当局もこの爆弾が自国製であることを認めている。これは決定的な証拠であるように思える。何故ならばイタリアは、日本がイタリアからそのような軍需物資を購入したことは一度も無い、と証言している。
――――――――
敵の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。
私たちが活躍すべき機会到来であった。
『抗日戦回想録』郭沫若自伝
――――――――
6月16日付東京朝日新聞夕刊
【上海特電十五日発】
上海軍当局談
「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」
――――――――
長沙に火をつけたのは、国民党が蒋介石の指図でやった大仕事だった。彼らは一度派手な手柄をたてようと、クトゥーゾフがモスクワを焼き払ったのをまねて長沙焼き払いをしでかしたのだ。しかし、残念ながら日本軍はこれを道化役にしてしまい、ナポレオンを演じに登場してはくれなかった。全市に焼け棒杭の山を残し、百余万戸の家を焼き、そればかりいまだに総数もわからぬ傷病兵や年寄り、子供、病人などの市民を焼死させた責任は、いったい誰が負うのだろうか?
『抗日戦回想録』郭沫若自伝
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私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているに違いない。
『抗日戦回想録』郭沫若自伝
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農民の飢餓救った日本軍 邦訳本出版 中国で映画化
06/4/9産経
(一部抜粋)
一九四二年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。そんな歴史の真実をとらえ、ロングセラーとなっている中国小説がこのほど日本で翻訳出版された。劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」だ。
同小説は日中戦争の最中の一九四二−四三年、河南省を襲った干魃による被災民三千万人、餓死者三百万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、日本軍の立場から多面的に描き出した。
飢饉の原因は天災だけでなく、中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した。
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ニューヨーク・タイムス上海特派員
香港発1937年8月27日付特電
(一部抜粋)
上海の国際租界及び仏特権区域に居住する無力な一般市民を、中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、武力手段または他の抑止策をとることについて何らかの国際的な合意が必要であるということは、上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフ達の一致した見解となっている。
中国軍は、この爆弾は日本軍機から投下されたものである、と宣伝することによって責任を拒否した。しかしながら今や、これらの爆弾は両方とも中国が伊から購入したイタリア製のものであることが判明している、この判明した事実について、米英の現地の海軍調査官の意見は一致している。そしてイタリア当局もこの爆弾が自国製であることを認めている。これは決定的な証拠であるように思える。何故ならばイタリアは、日本がイタリアからそのような軍需物資を購入したことは一度も無い、と証言している。
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敵の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。
私たちが活躍すべき機会到来であった。
『抗日戦回想録』郭沫若自伝
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6月16日付東京朝日新聞夕刊
【上海特電十五日発】
上海軍当局談
「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」
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長沙に火をつけたのは、国民党が蒋介石の指図でやった大仕事だった。彼らは一度派手な手柄をたてようと、クトゥーゾフがモスクワを焼き払ったのをまねて長沙焼き払いをしでかしたのだ。しかし、残念ながら日本軍はこれを道化役にしてしまい、ナポレオンを演じに登場してはくれなかった。全市に焼け棒杭の山を残し、百余万戸の家を焼き、そればかりいまだに総数もわからぬ傷病兵や年寄り、子供、病人などの市民を焼死させた責任は、いったい誰が負うのだろうか?
『抗日戦回想録』郭沫若自伝
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私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているに違いない。
『抗日戦回想録』郭沫若自伝
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農民の飢餓救った日本軍 邦訳本出版 中国で映画化
06/4/9産経
(一部抜粋)
一九四二年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。そんな歴史の真実をとらえ、ロングセラーとなっている中国小説がこのほど日本で翻訳出版された。劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」だ。
同小説は日中戦争の最中の一九四二−四三年、河南省を襲った干魃による被災民三千万人、餓死者三百万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、日本軍の立場から多面的に描き出した。
飢饉の原因は天災だけでなく、中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した。
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これは メッセージ 2819 (topics_jk さん)への返信です.
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