ちょっと興味深かったので・・・
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2006/03/19 22:37 投稿番号: [14825 / 17759]
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「プロイセン憲法」を手本とした「大日本帝国憲法」の特徴
●あまり話題に取り上げられませんが、「大日本帝国憲法」の第1章「天皇」の直前に「告文」と「憲法発布勅語」が置いてあります。
大雑把に言ってしまえば、この内容は、国家主権が天皇にあることを権威づけるための序文(前置き)です。
つまり、大日本帝国は皇宗(神武天皇)に始まる万世一系の皇室(天皇家)を仰ぐ神の国(神聖なる国家)である。
このように畏れ多い主権者たる明治天皇から下賜された「大日本帝国憲法」を臣民は心して拝受の上、それを遵守し、決してこの憲法に背くことなどないように愛国心を大いに奮い立たせなさい、というようなことです。
●そして、ここで隠然と強調されるのが万世一系の天皇に仕える臣民(日本国民)が誇りとすべき民族精神(大和民族)の伝統です。
このようなプレリュードの演出は、先に「(1)ナチズム誕生のプレリュード」の中で触れた「プロイセン憲法」の焼き直しです。
プロイセン・ドイツの"名演出家”サヴィニーの国家理念づくりの「巧み」が日本の根本法の中で見事に生かされている訳です。
【そして、現在の日本における改憲論者の多くが着眼しているのは、このサビニーの“名演出”ぶりへの回帰ということです。】
●これは誤った歴史の繰り返しに繋がる可能性が大きく、まことに危険なことです。
しかし、もしも、このようなことを大声で主張すると、それは“杞憂でバカげた心配ごと”だと一笑に付す楽観主義的な傾向が強いようです。
しかし、それは国家における「法」についての歴史的な意味と役割を十分シビアに理解していないだけのことです。
どのような悪法であるにせよ、いったん決まってしまった「法」には絶対に従わされることになります。
“マア、マアそこは常識で・・・”などと笑って済ませることは最早できないのです。鞭で叩かれ、銃口を向けて暴力的に強制されるまでもなく、それが「法の支配の原則」だということを理解すべきです。
(制定までのプロセス)
●1867年(慶応3)の大政奉還と王政復古の大号令に続き、明治維新政府は五箇条の御誓文の提示と政体書を公布して政府の組織を整えます。
翌年(1868)に改元して明治元年となり、一世一元の制を定めました。
この年には神仏分離令が公布されたため廃物毀釈の運動が広がり、それに神祇崇拝の風が重なって多くの寺院や仏像が破壊・焼却されました。
●更に、版籍奉還・廃藩置県・身分制の廃止(1871/明治4)が行われ、
1873年(明治6)には地租改正の実施とともに徴兵令が出されて近代国家としての体裁が出来上がります。
しかし、【西洋諸国に伍して近代独立国家の面目を保つには富国強兵とともに近代的な法体系(法制)の整備を図る必要がありました。】
●1874年(明治7)の民撰議員設立建白書が憲法制定への動きを促すことになります。
その後、明治7年に設立された元老院が憲法案の作成に取り組み、ベルギー憲法などを範とする「日本国憲按」が1878年(明治11)に出来上がりますが、
その内容が憲法偏重主義(民主的な色彩が強すぎる)などの理由で政府内部、
特に岩倉具視(京都・岩倉出の公家、幕末に公武合体を説き王政復古の中枢の一人となった/維新後は右大臣・特命全権大使として欧米の文化・政治制度を視察)から強い反対を受け退けられました。
●また、明治10年以降になると自由民権運動が活発化しますが、
その中から英仏の憲法を模範とする様々な「私擬憲法」(憲法私案)が作られます。
【しかし、明治維新政府はこれらの動きを無視し、】
やがて自由民権運動そのものが抑圧されるようになりました。
しかし、「明治14年の政変」(1881/大久保利通の死後に起きた、大隈重信の追放事件/大隈重信が民営化(政府財産払い下げ)関連のスキャンダルに巻き込まれ、
これを機に伊藤博文らの薩長藩閥が大隈の追放と10年後の国会開設の詔の発布を要求した)が切欠となり、
1890年(明治23)を期して国会が開設されることになり、それまでの間に憲法が制定されることになります。
●伊藤博文(長州出身で英国に留学した政治家/憲法制定、初代首相、初代枢密院議長、立憲政友・・・
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050519
●あまり話題に取り上げられませんが、「大日本帝国憲法」の第1章「天皇」の直前に「告文」と「憲法発布勅語」が置いてあります。
大雑把に言ってしまえば、この内容は、国家主権が天皇にあることを権威づけるための序文(前置き)です。
つまり、大日本帝国は皇宗(神武天皇)に始まる万世一系の皇室(天皇家)を仰ぐ神の国(神聖なる国家)である。
このように畏れ多い主権者たる明治天皇から下賜された「大日本帝国憲法」を臣民は心して拝受の上、それを遵守し、決してこの憲法に背くことなどないように愛国心を大いに奮い立たせなさい、というようなことです。
●そして、ここで隠然と強調されるのが万世一系の天皇に仕える臣民(日本国民)が誇りとすべき民族精神(大和民族)の伝統です。
このようなプレリュードの演出は、先に「(1)ナチズム誕生のプレリュード」の中で触れた「プロイセン憲法」の焼き直しです。
プロイセン・ドイツの"名演出家”サヴィニーの国家理念づくりの「巧み」が日本の根本法の中で見事に生かされている訳です。
【そして、現在の日本における改憲論者の多くが着眼しているのは、このサビニーの“名演出”ぶりへの回帰ということです。】
●これは誤った歴史の繰り返しに繋がる可能性が大きく、まことに危険なことです。
しかし、もしも、このようなことを大声で主張すると、それは“杞憂でバカげた心配ごと”だと一笑に付す楽観主義的な傾向が強いようです。
しかし、それは国家における「法」についての歴史的な意味と役割を十分シビアに理解していないだけのことです。
どのような悪法であるにせよ、いったん決まってしまった「法」には絶対に従わされることになります。
“マア、マアそこは常識で・・・”などと笑って済ませることは最早できないのです。鞭で叩かれ、銃口を向けて暴力的に強制されるまでもなく、それが「法の支配の原則」だということを理解すべきです。
(制定までのプロセス)
●1867年(慶応3)の大政奉還と王政復古の大号令に続き、明治維新政府は五箇条の御誓文の提示と政体書を公布して政府の組織を整えます。
翌年(1868)に改元して明治元年となり、一世一元の制を定めました。
この年には神仏分離令が公布されたため廃物毀釈の運動が広がり、それに神祇崇拝の風が重なって多くの寺院や仏像が破壊・焼却されました。
●更に、版籍奉還・廃藩置県・身分制の廃止(1871/明治4)が行われ、
1873年(明治6)には地租改正の実施とともに徴兵令が出されて近代国家としての体裁が出来上がります。
しかし、【西洋諸国に伍して近代独立国家の面目を保つには富国強兵とともに近代的な法体系(法制)の整備を図る必要がありました。】
●1874年(明治7)の民撰議員設立建白書が憲法制定への動きを促すことになります。
その後、明治7年に設立された元老院が憲法案の作成に取り組み、ベルギー憲法などを範とする「日本国憲按」が1878年(明治11)に出来上がりますが、
その内容が憲法偏重主義(民主的な色彩が強すぎる)などの理由で政府内部、
特に岩倉具視(京都・岩倉出の公家、幕末に公武合体を説き王政復古の中枢の一人となった/維新後は右大臣・特命全権大使として欧米の文化・政治制度を視察)から強い反対を受け退けられました。
●また、明治10年以降になると自由民権運動が活発化しますが、
その中から英仏の憲法を模範とする様々な「私擬憲法」(憲法私案)が作られます。
【しかし、明治維新政府はこれらの動きを無視し、】
やがて自由民権運動そのものが抑圧されるようになりました。
しかし、「明治14年の政変」(1881/大久保利通の死後に起きた、大隈重信の追放事件/大隈重信が民営化(政府財産払い下げ)関連のスキャンダルに巻き込まれ、
これを機に伊藤博文らの薩長藩閥が大隈の追放と10年後の国会開設の詔の発布を要求した)が切欠となり、
1890年(明治23)を期して国会が開設されることになり、それまでの間に憲法が制定されることになります。
●伊藤博文(長州出身で英国に留学した政治家/憲法制定、初代首相、初代枢密院議長、立憲政友・・・
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050519
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