韓国軍のベトナム人大虐殺を教えよう
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2005/04/21 03:15 投稿番号: [7030 / 9338]
あなたたちは、金のため韓国人はベトナムに赴き、罪のない農民を殺しまくった。金のためにそんな残虐な行為をなした。と、非難しています。
今の時代、もしぼくの一家が極貧で、子供は学校に弁当を持っていくことも出来ず、遠足にも水と白米だけのような境遇だったら、ぼくは泥の中を這いずり回っても、あるいは確信犯的にアンモラルなことをしても、この悲惨な状況から抜け出すように努力するでしょう。
下記を読んで感じるところがありませんか、ボトムさん? マックさん? ついでにネックさん?
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韓国は1960年代、世界でも最貧国の仲間と言い切っても何ら違和感のない立ち位置にあった。
なんせフィリピンの国民1人当たりGNPが257ドル、韓国のそれは79ドルだったというのだから相当なものである。
1964年、というから昭和39年である。12/10、朴正熙大統領夫妻は西ドイツの首都ボンから車で1時間余りのハムボルン鉱山を訪れた。これには西ドイツのルイブケ大統領も同行している。
朴正熙がハムボルン鉱山を訪問したのは、この鉱山の炭鉱夫として300人、看護婦として50人の韓国人が外貨獲得のために出稼ぎに来ていたからである。
この西ドイツの炭鉱に働く人々は韓国内のエリートであった。ほとんどが大学卒業者か中退者、韓国内での100倍の競争に勝ち抜いて祖国代表として遠い異国の地にやって来たのである。
学識も優れた立派な人間が先陣を切る事で、その後も多くの韓国人出稼ぎ労働者を心よく受け入れて貰おうとの必死の策だった。
当時の韓国の人口2400万人中、政府が公表していた失業者だけで250万人、もはや外貨獲得なしには経済が立ち行かなくなっていたのである。一時は出稼ぎ労働者の送金額だけで韓国のGNPの2%を占めるほどだった。出稼ぎ労働者の中では坑内での事故で死亡する者も多く、失明して祖国へ帰る者もいたという。
そうした苦難の中、稼いだマルクを祖国へ送金していたのである。
また出稼ぎ労働者による送金以外にも、この炭鉱夫らへの給与を担保とする事によって韓国は西ドイツから巨額のマルク借款に成功し、国内のインフラ整備など後の経済発展の礎を築いている。そんな中の朴正熙の来訪だった。
この日のために炭鉱夫は一張羅の背広を着けて、看護婦たちはチョゴリをまとい講堂に集まった中、朴正熙大統領夫妻は壇上に上がる、♪むくげ三千里、美しい山河…、「愛国歌」が演奏された。
朴正熙は「皆様がたとこのように遠く離れた異郷の地でお会いできて感慨無量です」と語ったきり言葉にならなくなった。資源もなく、朝鮮戦争の傷跡で荒廃した国土から、祖国の復興のために遠く西ドイツの地にまで外貨獲得に出稼ぎに行かねばならなかった同胞たち。朴正熙はスピーチ用に用意した原稿を押しのけると「炭鉱夫の皆さん、看護婦の皆さん。」と呼びかけた。「祖国の家族や故郷への思いから悲しくなる事も多いと思うが、何のためにこの遠い異国の地に来たのかを思い出して祖国の名誉をかけて働きましょう。
例え私たちの生きているうちには祖国の発展を目にできないとしても、私たちの子供や孫が幸福に暮らせるように、繁栄の基盤を築いておきましょう」。
朴正熙は壇上で嗚咽してしまった。夫人の陸英修も、300人の炭鉱夫たちも、50人の看護婦たちも、講堂に集まった人々は感極まって皆、泣いてしまった。祖国の凄惨なまでに貧しい暮らしと、祖国へ送金するために遠い異国の地で学歴も地位も捨てて過酷な労働に従事する境遇を耐えていたものが、大統領ともいえば国父のような存在だった朴正熙の号泣を目の当たりにして、350人、こらえきれずに一斉に堰を切って泣いてしまったのだった。
「地下1000メートルでの仕事を終え、地上に上がって一杯飲むのが炭鉱夫の何よりの楽しみだが、韓国人炭鉱夫たちはその一杯も惜しんで本国へ送金する」という話を朴正熙は聞く。韓国人炭鉱夫たちの身体は採炭中に折れるドリルの破片によって傷だらけだった。
土産に韓国から持って来たタバコ500箱を配り終えて帰途につこうとした朴正熙の車は、炭鉱夫たちに取り囲まれて進めなくなった。
「一度、手を握らせて下さい」
全員と握手して鉱山を去った朴正熙は車の中でも嗚咽が止まらない。ルイブケ大統領は「泣かないで下さい、私が彼らを支えるから、泣かないで下さい」と繰り返すばかりであったという。
宿舎に戻った朴正熙は夫人と共になおも涙を流しながら、同行していた記者をつかんで「既に決まっている東南アジア訪問を終えたら、私たちの国民がまともな食事が取れるようになるまでは外遊はしない」「私たちの国民が飯だけでもまともに食べられるようにしなければならない」と語ったという。
今の時代、もしぼくの一家が極貧で、子供は学校に弁当を持っていくことも出来ず、遠足にも水と白米だけのような境遇だったら、ぼくは泥の中を這いずり回っても、あるいは確信犯的にアンモラルなことをしても、この悲惨な状況から抜け出すように努力するでしょう。
下記を読んで感じるところがありませんか、ボトムさん? マックさん? ついでにネックさん?
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韓国は1960年代、世界でも最貧国の仲間と言い切っても何ら違和感のない立ち位置にあった。
なんせフィリピンの国民1人当たりGNPが257ドル、韓国のそれは79ドルだったというのだから相当なものである。
1964年、というから昭和39年である。12/10、朴正熙大統領夫妻は西ドイツの首都ボンから車で1時間余りのハムボルン鉱山を訪れた。これには西ドイツのルイブケ大統領も同行している。
朴正熙がハムボルン鉱山を訪問したのは、この鉱山の炭鉱夫として300人、看護婦として50人の韓国人が外貨獲得のために出稼ぎに来ていたからである。
この西ドイツの炭鉱に働く人々は韓国内のエリートであった。ほとんどが大学卒業者か中退者、韓国内での100倍の競争に勝ち抜いて祖国代表として遠い異国の地にやって来たのである。
学識も優れた立派な人間が先陣を切る事で、その後も多くの韓国人出稼ぎ労働者を心よく受け入れて貰おうとの必死の策だった。
当時の韓国の人口2400万人中、政府が公表していた失業者だけで250万人、もはや外貨獲得なしには経済が立ち行かなくなっていたのである。一時は出稼ぎ労働者の送金額だけで韓国のGNPの2%を占めるほどだった。出稼ぎ労働者の中では坑内での事故で死亡する者も多く、失明して祖国へ帰る者もいたという。
そうした苦難の中、稼いだマルクを祖国へ送金していたのである。
また出稼ぎ労働者による送金以外にも、この炭鉱夫らへの給与を担保とする事によって韓国は西ドイツから巨額のマルク借款に成功し、国内のインフラ整備など後の経済発展の礎を築いている。そんな中の朴正熙の来訪だった。
この日のために炭鉱夫は一張羅の背広を着けて、看護婦たちはチョゴリをまとい講堂に集まった中、朴正熙大統領夫妻は壇上に上がる、♪むくげ三千里、美しい山河…、「愛国歌」が演奏された。
朴正熙は「皆様がたとこのように遠く離れた異郷の地でお会いできて感慨無量です」と語ったきり言葉にならなくなった。資源もなく、朝鮮戦争の傷跡で荒廃した国土から、祖国の復興のために遠く西ドイツの地にまで外貨獲得に出稼ぎに行かねばならなかった同胞たち。朴正熙はスピーチ用に用意した原稿を押しのけると「炭鉱夫の皆さん、看護婦の皆さん。」と呼びかけた。「祖国の家族や故郷への思いから悲しくなる事も多いと思うが、何のためにこの遠い異国の地に来たのかを思い出して祖国の名誉をかけて働きましょう。
例え私たちの生きているうちには祖国の発展を目にできないとしても、私たちの子供や孫が幸福に暮らせるように、繁栄の基盤を築いておきましょう」。
朴正熙は壇上で嗚咽してしまった。夫人の陸英修も、300人の炭鉱夫たちも、50人の看護婦たちも、講堂に集まった人々は感極まって皆、泣いてしまった。祖国の凄惨なまでに貧しい暮らしと、祖国へ送金するために遠い異国の地で学歴も地位も捨てて過酷な労働に従事する境遇を耐えていたものが、大統領ともいえば国父のような存在だった朴正熙の号泣を目の当たりにして、350人、こらえきれずに一斉に堰を切って泣いてしまったのだった。
「地下1000メートルでの仕事を終え、地上に上がって一杯飲むのが炭鉱夫の何よりの楽しみだが、韓国人炭鉱夫たちはその一杯も惜しんで本国へ送金する」という話を朴正熙は聞く。韓国人炭鉱夫たちの身体は採炭中に折れるドリルの破片によって傷だらけだった。
土産に韓国から持って来たタバコ500箱を配り終えて帰途につこうとした朴正熙の車は、炭鉱夫たちに取り囲まれて進めなくなった。
「一度、手を握らせて下さい」
全員と握手して鉱山を去った朴正熙は車の中でも嗚咽が止まらない。ルイブケ大統領は「泣かないで下さい、私が彼らを支えるから、泣かないで下さい」と繰り返すばかりであったという。
宿舎に戻った朴正熙は夫人と共になおも涙を流しながら、同行していた記者をつかんで「既に決まっている東南アジア訪問を終えたら、私たちの国民がまともな食事が取れるようになるまでは外遊はしない」「私たちの国民が飯だけでもまともに食べられるようにしなければならない」と語ったという。
これは メッセージ 1 (kaikakumon さん)への返信です.