Re: 会津藩の白虎隊も新鮮組も
投稿者: japanpoors 投稿日時: 2009/11/13 22:20 投稿番号: [71 / 124]
慶応3年10月14日(1867年11月9日)に討幕の密勅が出されるにいたる。ところが、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、同じ10月14日には、天皇に大政奉還を奏請しており(在京各藩士には前日に二条城で宣言していた)、討幕派は大義名分を失った。大政奉還により、江戸幕府による政権は名目上終了した。
しかし、慶喜は将軍職も辞任せず(24日に辞職)、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わらなかった。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画する。慶応3年12月9日(1868年1月3日)に、王政復古の大号令が下され、従来の将軍・摂政・関白などの職が廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与からなる新政府の樹立が宣言された。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜は官職(内大臣)辞職および領地返上を要請されたのである。会議に参加した山内容堂は猛反対するが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定された。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去したが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまう。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、幕府側を挑発した。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちした。
なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られた。
これは メッセージ 70 (numbergl さん)への返信です.
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