Re: 会津藩の白虎隊も新鮮組も
投稿者: japanpoors 投稿日時: 2009/11/11 22:14 投稿番号: [63 / 124]
尊攘派浪士などによる天誅(要人暗殺)や商家への押し込み、強盗などの騒乱が横行し、所司代のみでは防ぎきれないと判断した幕府が、京都市中の治安維持及び御所・二条城の警護などを担う役割として設置したものである。会津藩主・松平容保が文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に就任[1]。本陣を金戒光明寺(京都市左京区黒谷町121)に置いた。原則的に藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。容保は初め徳川慶喜・松平春嶽からの再三の就任要請を断っていた。藩財政は既に浦賀、蝦夷地の警備の任にあったことで窮乏状態にあり、また、家臣も就任反対で意見が一致していた。しかし、春嶽が会津藩祖・保科正之の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾した。任を受けた君臣は会津藩江戸藩邸にあって「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したという。
京都守護職は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に置き、見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組も支配下となった。しかしながら京都所司代・京都町奉行はあまり役に立たなかった。また、会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き治安の維持に当たらせた。後元治元年(1864年)には京都所司代に容保の実弟である桑名藩主・松平定敬が任命され、兄弟で京の治安を守る形となる。容保は文久3年末に徳川慶喜(一橋徳川家当主・将軍後見職)・島津久光らとともに朝廷参預を命ぜられるなど(詳細は参預会議を参照)、孝明天皇の信任も篤かった。しかし参預会議は短期間で崩壊。江戸の幕閣から警戒された徳川慶喜は将軍後見職を辞して朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮という新職に任命され、松平容保・定敬兄弟と連携して京都に幕府から独立した権力を築いた。一橋・会津・桑名の頭文字をとって「一会桑」(あるいは橋会桑)という。
慶応3年(1867年)10月に将軍となっていた徳川慶喜は大政奉還で江戸幕府の支配を形式上終焉させる。しかし、将軍職は辞せず、京都守護職も残された。新政府を主導する薩摩藩や長州藩にとっては京都に大兵を擁する一会桑は脅威であったため、これらの解体を図る必要があり、12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令によって摂関・将軍など旧来の職が廃止されたことにともない、新政府が京都の支配権を確立したこともあって、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。
京都守護職は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に置き、見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組も支配下となった。しかしながら京都所司代・京都町奉行はあまり役に立たなかった。また、会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き治安の維持に当たらせた。後元治元年(1864年)には京都所司代に容保の実弟である桑名藩主・松平定敬が任命され、兄弟で京の治安を守る形となる。容保は文久3年末に徳川慶喜(一橋徳川家当主・将軍後見職)・島津久光らとともに朝廷参預を命ぜられるなど(詳細は参預会議を参照)、孝明天皇の信任も篤かった。しかし参預会議は短期間で崩壊。江戸の幕閣から警戒された徳川慶喜は将軍後見職を辞して朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮という新職に任命され、松平容保・定敬兄弟と連携して京都に幕府から独立した権力を築いた。一橋・会津・桑名の頭文字をとって「一会桑」(あるいは橋会桑)という。
慶応3年(1867年)10月に将軍となっていた徳川慶喜は大政奉還で江戸幕府の支配を形式上終焉させる。しかし、将軍職は辞せず、京都守護職も残された。新政府を主導する薩摩藩や長州藩にとっては京都に大兵を擁する一会桑は脅威であったため、これらの解体を図る必要があり、12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令によって摂関・将軍など旧来の職が廃止されたことにともない、新政府が京都の支配権を確立したこともあって、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。
これは メッセージ 62 (numbergl さん)への返信です.
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