死線を越えて
投稿者: rie2377 投稿日時: 2011/10/22 07:09 投稿番号: [6094 / 6355]
再稿になりますが、議論トピで薩摩の
敵中突破の話が出ていたので
死線を越えて
関が原の戦いで、西軍総崩れになった頃進退に
窮している一団があった
島津義弘率いる薩摩島津軍である、その数
約一千、周りを東軍に囲まれ絶対絶命の窮地で
あった
殿、もはや四面楚歌で御座る
この上は最後の一太刀を
もうよい、余はここで腹を切る
そなたらは徳川殿に降るが良い
義弘は我が身を捨て、家臣を助けようとした
のである
これを聞いた甥の島津豊久が進み出る
叔父上、勝敗は時の運
何れ捲土重来を
期す折も参りましょう
此度は、何としても薩摩に御戻りを
義弘は暫し熟考に耽る、この死地を如何に
切り抜けるか、やがて意を決する
斯く成る上は、敵陣突破あるのみ
敵に背を向けるは末代までの恥
目指すは徳川軍
皆の者、続けー!
オオー!
徳川軍の主力が集結する、敵陣目指して切り
込んでいった、それは異様な光景であった
千人余りの集団が、数万の敵陣の中に自ら
飛び込んで来たのである
義弘は猛将として、若い頃よりその名を
轟かせていた、木崎原の戦いでは日向佐土原に
本拠を置く、伊東義祐の軍勢を僅かな兵力で
打ち破っている
この木崎原の戦いは、九州の桶狭間と言われ
薩摩九州制圧のきっかけとなった
朝鮮の役でも数々の武勲を立て、薩摩軍は
鬼神の如しと恐れられていた、義弘は兄の
当主義久と違い、常に前線で戦って来た
武人としての誇りが、義弘に無謀とも言える
行動を取らせたのかも知れない
薩摩軍は、まず前線の福島正則隊の脇を一気に
駆け抜け本陣の目前を南下していった
これに対して追撃も厳しかった、井伊直政
本多忠勝が猛然と襲い掛かる
薩摩勢、一騎たりとも討ち漏らすな
押し潰せー!
その激しさは、追撃の総大将井伊直政が
この時の負傷が元で後々死亡した程であった
薩摩軍にも大きな被害が出た、甥の豊久や
家老の長寿院盛淳など多くが戦死、半数近く
犠牲にしてようやく摂津住吉に逃れ海路
薩摩に逃れている
この薩摩の敵中突破は、東軍西軍に関わらず
関が原に参戦した多くの武将達を驚かせた
薩摩隼人の戦さ振り、武人の鑑なり!
家康にも感銘を与えたのか、戦後の論功行賞で
薩摩は西軍に与力したにも関わらず、所領は
安堵となった
人は絶対絶命に陥った時、大きな力を発揮する
桶狭間の信長、伊賀越えの家康
関が原で共に敗れた長州と薩摩が、明治維新で
雪辱を果たしたのは、歴史の皮肉という他はない
いずれにしてもこの薩摩の敵中突破は
関が原の逸話として永く、人々の記憶に
残ったのである
これは メッセージ 1 (bei*wol*11*jp さん)への返信です.
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