ガラシャ夫人
投稿者: rie2377 投稿日時: 2011/01/29 07:16 投稿番号: [5829 / 6355]
以前投稿した物ですが、大河ドラマに
この話が出てくるような気がして^^
ガラシャ夫人
本能寺の変は、光秀の三女玉子が嫁ぐ細川家を
激震させた 細川藤孝、忠興親子は、直ちに
重臣を集め軍議を開く
当主藤孝がまず口火を切る
日向ノ守殿、御謀反これあり 我等
如何(いかが)処すべきか
皆の者、所存あらば申し述べよ
さればで御座る、我が細川家と明智家は
親戚の間柄 明智殿へ与力致すが、宜しいかと
如何にも、明智殿はもはや天下人(びと)
これに御味方するは御家の為
待たれよ! 忠興が異議を唱える
確かに、我が細川家と明智家は懇意の間柄
されど明智殿は主君を討った謀反人
必ずこの汚名は付いて参ろう
天下は彼の御仁の手中にはなるまい
これに与力するは我等も又、裏切り者の誹りを
受けるは必定 父上、何卒誤りなき御判断を
うむ、、忠興の申し様 尤も至極
我が細川家は明智家に関わりなし
細川家の方針は固まり、光秀からの幾度にも渡る
援軍要請にも応じる事はなかった
この後、光秀は山崎の合戦で秀吉に破れ
最後は土豪の手に掛かりあえない最後を遂げた
ここで窮地に陥ったのが忠興の正室玉子であった
謀反人の娘として身の置き所がなかった
夫忠興も秀吉への配慮から、玉子の処遇を
考えざるを得なかった
居城田辺城よりほど遠い、丹後味土野の山中に
二年の永きに渡って幽閉したのである
玉子は僅かな侍女と侘しい時を過ごす
お父上の御無念を思うと
我が身の何と頼りなき事か
幽閉が解かれたのは天正十二年、秀吉の
とりなしにより玉子は大阪細川屋敷に戻り
再び忠興と暮らすようになる
屋敷に戻った玉子は、外出を禁じられさながら
籠の中の鳥であった 忠興は何人もの側室を持ち
玉子は鬱々とした日々を送っていた
そんな頃、玉子にバテレンの話が入ってきた
彼等によれば、何人(なんびと)と言えど
神の前では平等であり教えに従えば心の
平穏が得られる、と言うのである
これを聞いた玉子は、矢も盾もたまらず
屋敷を抜け出し天馬の教会に駆け込んだ
玉子には聞きたい事が山のようにあった
応対する宣教師に、継ぎ早に質問を投げかける
生とは、死とは、来世とは 義とは
玉子は父光秀の影響もあり儒学に明るかった
宣教師にキリスト教との違いを、幾度も指摘する
驚いた宣教師は、後に書き残したイエスズ会
日本報告集の中で
私はかって、これほど聡明な女性を
見た事が無い そう述べている
玉子は先に洗礼を受けた、侍女清原マリアの
手によって洗礼を受ける、洗礼名はガラシャ
ラテン語で神の恵みという意味である
これより後、玉子はガラシャ夫人と呼ばれる
ようになる、敬虔なクリスチャンとなった
ガラシャは、心の平穏を取り戻し生きる
喜びを知るのである
みなし児を屋敷に住まわせ、自ら世話を焼いた
それは何物にも変えられぬ、生き甲斐となった
しかし又もや悲劇がガラシャを襲う、家康が
上杉討伐に向かった隙に石田三成が
挙兵したのである
三成は大阪に残された、東軍側の妻子を
人質に取り西軍に付かせようとする
忠興も東軍に参じ、家康に従い上杉討伐に
加わっていた
出発前、忠興はガラシャに言い残す
三成挙兵の恐れあり、万一の時は自刃致すよう
よいな
そしてついにその日がやって来る、慶長五年
七月十七日細川屋敷を三成軍が取り囲む
人質になるよう説得されたガラシャは
これを拒絶
自刃を許さない教義に従い、家老小笠原少斎に
胸を貫かせて最後を遂げた、享年三十八歳
余談ながらガラシャ夫人の生涯は、遠くヨーロッパに
伝えられ貴婦人の鏡として絶賛されている
ウイーン国立図書館には、ガラシャ夫人の一生を
描いた歌劇の楽譜が残されている、西洋の
貴婦人達にも影響を与えたガラシャ夫人
我々が知るより、もっと大きな存在なのかも
知れない
この話が出てくるような気がして^^
ガラシャ夫人
本能寺の変は、光秀の三女玉子が嫁ぐ細川家を
激震させた 細川藤孝、忠興親子は、直ちに
重臣を集め軍議を開く
当主藤孝がまず口火を切る
日向ノ守殿、御謀反これあり 我等
如何(いかが)処すべきか
皆の者、所存あらば申し述べよ
さればで御座る、我が細川家と明智家は
親戚の間柄 明智殿へ与力致すが、宜しいかと
如何にも、明智殿はもはや天下人(びと)
これに御味方するは御家の為
待たれよ! 忠興が異議を唱える
確かに、我が細川家と明智家は懇意の間柄
されど明智殿は主君を討った謀反人
必ずこの汚名は付いて参ろう
天下は彼の御仁の手中にはなるまい
これに与力するは我等も又、裏切り者の誹りを
受けるは必定 父上、何卒誤りなき御判断を
うむ、、忠興の申し様 尤も至極
我が細川家は明智家に関わりなし
細川家の方針は固まり、光秀からの幾度にも渡る
援軍要請にも応じる事はなかった
この後、光秀は山崎の合戦で秀吉に破れ
最後は土豪の手に掛かりあえない最後を遂げた
ここで窮地に陥ったのが忠興の正室玉子であった
謀反人の娘として身の置き所がなかった
夫忠興も秀吉への配慮から、玉子の処遇を
考えざるを得なかった
居城田辺城よりほど遠い、丹後味土野の山中に
二年の永きに渡って幽閉したのである
玉子は僅かな侍女と侘しい時を過ごす
お父上の御無念を思うと
我が身の何と頼りなき事か
幽閉が解かれたのは天正十二年、秀吉の
とりなしにより玉子は大阪細川屋敷に戻り
再び忠興と暮らすようになる
屋敷に戻った玉子は、外出を禁じられさながら
籠の中の鳥であった 忠興は何人もの側室を持ち
玉子は鬱々とした日々を送っていた
そんな頃、玉子にバテレンの話が入ってきた
彼等によれば、何人(なんびと)と言えど
神の前では平等であり教えに従えば心の
平穏が得られる、と言うのである
これを聞いた玉子は、矢も盾もたまらず
屋敷を抜け出し天馬の教会に駆け込んだ
玉子には聞きたい事が山のようにあった
応対する宣教師に、継ぎ早に質問を投げかける
生とは、死とは、来世とは 義とは
玉子は父光秀の影響もあり儒学に明るかった
宣教師にキリスト教との違いを、幾度も指摘する
驚いた宣教師は、後に書き残したイエスズ会
日本報告集の中で
私はかって、これほど聡明な女性を
見た事が無い そう述べている
玉子は先に洗礼を受けた、侍女清原マリアの
手によって洗礼を受ける、洗礼名はガラシャ
ラテン語で神の恵みという意味である
これより後、玉子はガラシャ夫人と呼ばれる
ようになる、敬虔なクリスチャンとなった
ガラシャは、心の平穏を取り戻し生きる
喜びを知るのである
みなし児を屋敷に住まわせ、自ら世話を焼いた
それは何物にも変えられぬ、生き甲斐となった
しかし又もや悲劇がガラシャを襲う、家康が
上杉討伐に向かった隙に石田三成が
挙兵したのである
三成は大阪に残された、東軍側の妻子を
人質に取り西軍に付かせようとする
忠興も東軍に参じ、家康に従い上杉討伐に
加わっていた
出発前、忠興はガラシャに言い残す
三成挙兵の恐れあり、万一の時は自刃致すよう
よいな
そしてついにその日がやって来る、慶長五年
七月十七日細川屋敷を三成軍が取り囲む
人質になるよう説得されたガラシャは
これを拒絶
自刃を許さない教義に従い、家老小笠原少斎に
胸を貫かせて最後を遂げた、享年三十八歳
余談ながらガラシャ夫人の生涯は、遠くヨーロッパに
伝えられ貴婦人の鏡として絶賛されている
ウイーン国立図書館には、ガラシャ夫人の一生を
描いた歌劇の楽譜が残されている、西洋の
貴婦人達にも影響を与えたガラシャ夫人
我々が知るより、もっと大きな存在なのかも
知れない
これは メッセージ 1 (beiowolf119jp さん)への返信です.