何故、嫌いな日本人に成り済ますのか?

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歌人将軍

投稿者: rie2387 投稿日時: 2010/09/11 07:39 投稿番号: [5711 / 6355]
武家の棟梁でありながら、雅な宮廷文化に
憧れた源実朝   少しだけ

        歌人将軍

健保七年一月十七日   右大臣を拝命し
奉賀の祝典の為、鶴岡八幡宮の境内を進む
実朝   (さねとも)   の心中は
晴れ晴れとした充足感に溢れていた

これにて、源氏の行く末磐石なり
父上(頼朝)御安堵あれ

降りしきる雪の中、重臣源仲章と共に
護衛の兵が待つ門前に向かったその時
僧服の刺客が躍り出る

我こそは頼家が一子   公暁別当なり!
叔父上、覚悟!

公暁(くぎょう)の太刀は実朝を直撃
微かに雪化粧した境内は、一瞬にして
朱に染まって行った

鎌倉三代将軍、源実朝は念願の右大臣を
拝命したその日、甥の公暁の手に掛かり
無念の最期を遂げた

(享年二十七歳)

凶刃に倒れた源実朝、後世歌人将軍と
呼ばれ、勅撰和歌集にも九十二首が
収められている

大海の、磯もとどろに寄する波
割れて砕けて、裂けて散るかも

実朝は兄の二代将軍源頼家が追放されると
十二歳の若さで将軍となる
幼い将軍を補佐したのは、執権
北条時政であった

元来病弱であった実朝は、武芸を好まず
蹴鞠や和歌を詠む日々を送っていた
やがて和歌を通じて触れる、雅な宮廷文化に
憧れを持つようになる

これが後々鎌倉武士団との、軋轢の一因と
なったのである

頼朝以来鎌倉幕府は、朝廷との関わりを
絶ってきた、それは多大な犠牲を払い
樹立した、武家政権の独立性の確保であり
領地を支配する御家人として、朝廷の
干渉を許す訳にはいかなかった

しかし実朝は、官位を得る事により
源氏の力を高めようと考える
頻繁に使者を送り昇進を願い出ている
当然見返りも要求された

幕府直轄地に朝廷の課税を認めたのである
幕府が朝廷に税を奉納する、これは御家人達の
激しい反発をかった

我等、朝廷に仕えるにあらず
されば、何の為の幕府か

九朗殿と同じ轍を踏まれる御積りか

実朝は答える

案ずるに及ばず、叔父上は判官
我は右大臣なり

源家の行く末は、内裏(だいり)と
共にあり

朝廷政治と武家政権の融和、実朝は
そんな理想を持ったのだろうか
しかし、時代は後戻りする事を
許さなかった

右大臣を拝命し、益々朝廷に傾いていく
実朝に危惧を抱いた鎌倉武士団に
ある暗黙の合意がなされる

斯くなる上は、是非もなし
将軍討つべし!

実朝排除のうねりは、大きな波となり
もう止めようがなかった、そして事件は
起こった

公暁は程なく乳母夫の三浦義村に討たれ
口を封じられる、公暁の死により真相は
闇の中となった

邪推をすれば、この事件の背景にあったのは
御家人総意による謀殺だったような気が
してならない

歌人として宮廷文化に憧れ、相反する
武家の棟梁としてはざ間に揺れた源実朝

理想を追い、時代の波に翻弄された
悲劇の将軍と言えるかも知れない
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