何故、嫌いな日本人に成り済ますのか?

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鷹山公

投稿者: rie2387 投稿日時: 2010/06/05 07:32 投稿番号: [5007 / 6355]
再稿という事で


         鷹山公

上杉鷹山   幼名直松   後に治憲(はるのり)
更に鷹山と号す  

日向高鍋藩主、秋月佐渡守種美の
二男として江戸に生れる

母は上杉綱憲の孫にあたり、その縁で
米沢藩主上杉重定の養子となり
十七歳で藩主となった

その頃の上杉藩は、藩祖上杉謙信が
越後を中心に二百五十万石を越える
大勢力を誇っていた戦国時代とは
一変していた

関が原の戦いで、西軍についた上杉藩は
東北米沢地方に転邦となり、禄高も
十五万石と激減していた

それにも拘らず、家臣の数は据え置かれ
藩の財政は慢性的な、財政赤字に見舞われていた

藩士に与えられる禄高も、年々減少し
暮らし振りは困窮を極めた

国内は荒れ果て、農民は土地を捨て
逃亡する者が相次ぎ、藩主重定は
領地返上を幕府に願い出たほどであった

米沢に入った鷹山は、この惨状を見て
呆然と立ちすくむ

しかし若い鷹山は、怯まなかった

我手で、必ず立て直してみせる
我(われ)中興の祖とならん

そう、決意したのである

まず鷹山がやったのは、徹底した歳出の
見直しと倹約であった   自ら率先して
倹約に努め、衣一枚   一汁一膳という
暮らし振りであった

更に米の増産を計る為、家臣一団となって
土地の開墾に従事した、自ら鍬を振るい
その先頭に立ったのである

しかし、ここで重臣達の猛反発に逢う

名門上杉家の誉れは何処(いずこ)にあり
武士(もののふ)が鍬を持つなど、もっての他

即刻、止められよ
我が藩には、我が藩のやり方がある

先例や格式を重んじる重臣等は、外様の
鷹山の振る舞いが我慢ならなかった

その上義父重定が大変な浪費家であり
大邸宅を構え能や狂言に興じ、藩の財政を
益々圧迫させていた

そんな折、信州浅間山が大噴火を起こす
噴出された黒煙は関東はおろか、東北一円にも
広がり、各地で日照不足の飢饉が起きた

いわいる天明の大飢饉である

米沢藩も大打撃を受け、藩の財政は
益々悪化し責任を取る形で鷹山は藩主を降り
三十五歳にして隠居の身となった

この時次の藩主、重定の嫡男治広に贈った
訓戒の書、伝国の辞はつとに名高い

家は、先祖から与えられし物
決して、私するべからず

国家は民の為にあり、君主の為に
国家や民があるのではない

得と御賢察あれ

鷹山が隠居した後も、藩の財政は好転せず
禄高を大幅に減らされた藩士の中から
鷹山待望論が巻き起こる

隠居から六年、再び鷹山は藩の改革に
立ち上がる  

雌伏六年、我(われ)再び起ちて
米沢藩の捨石とならん

鷹山は全藩士を集め、藩の窮状を総て
曝け出し再建が容易成らざる事を知らせ
協力の誓紙を書かせた

全藩士の協力無しでは、再建は覚束ない
からであった

そこで十六ヵ条からなる財政再建案を示し
又広く意見を募る為、上書箱(じょうしょばこ)を
設置する

これに様々な意見が寄せられ、その中に
養蚕を促す物があった、鷹山は早速これを
取り入れ全土に桑の木を植えさせ、最新の
織機を導入し技術者を呼び寄せた

やがて血の滲むような研鑽の末、絹糸から
高級織物米沢織を生み出した   この米沢織は
爆発的に売れ藩の財政を一気に立て直した

この他にも、代官制度の改革、人材の
積極的な登用、人口増の立案など
様々な改革案を打ち出していく

今で言えば、公務員制度の改革
実力主義の採用、少子化対策の推進
そんな風に言えるかも知れない

鷹山は自らを律し決して奢る事はなかった
粗衣粗食に甘んじ、改革に全力を傾けた

米沢藩を立て直した鷹山の名声は
広く知れ渡り、江戸中期の名君として
紀州の徳川治貞、肥後の細川重賢等と
並び称された

余談ながら、アメリカのケネディ大統領が
一番尊敬する日本人と評している

鷹山の偉さは、一人の御役御免(解雇者)を
出さずに改革をやり遂げた事にもあった

藩の経営も企業の経営も理念は同じであり
企業の経営者や自治体の首長の多くは
今でも鷹山の教えを教訓としている
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