何故、嫌いな日本人に成り済ますのか?

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項羽と劉邦

投稿者: rie2387 投稿日時: 2010/05/29 07:44 投稿番号: [4930 / 6355]
今回は中国物を

項羽と劉邦

紀元前二百二十年頃、中国での初めての
統一王朝、秦は始皇帝が亡くなると急速に
力を失い、諸国で反乱が相次ぐように
なっていた

その中心的な存在が、長江流域に拡がる
楚の国であった

楚の国王は宣言する

関中(かんちゅう)に先じる者
これを王たらしめん

(秦の都、関中に先に入った者を
  国王とする)

これに呼応し、国王の前に項羽と劉邦の
二人の将軍が進み出る

陛下、我等に御任せを!

項羽は貴族の出身で、軍略に長け
豪勇果敢な人物であった

項羽が怒(いか)れば、人も馬も
数里は退く、と評されている

対して劉邦は農民の出で、寛大かつ
穏やかな性格の持ち主であった

史記には、仁(じん)にして人を愛す
と記されている

後に覇を争う事になる二人は、二手に
分かれてそれぞれ関中を目指して行った

項羽は、趙の国に集結する秦の主力軍
二十万と雌雄を決するべく北へ向う
趙の鋸鹿(きょろく)城目指して
黄河を渡っていく

この時項羽は、思い切った戦略に出る

軍船を焼き払い、食料も三日分を残して
総て遺棄したのである、もう後はない
自ら退路を断った

兵士は三日で城を落とす必要に迫られた
もし長引けば飢えに苦しむ事になる
飢えの苦しさは耐えがたい

兵士の奮戦は凄まじかった、三日どころか
僅か一日で二十万の兵を打ち破ったのである

項羽の思惑は当たり、項羽軍は一路
関中に向かって行った

一方西から関中に向かった劉邦軍は
関中を守る敵の要塞   函谷関(かんこくかん)を
避け、南に下り秦の拠点の一つ宛(えん)に
進軍し降伏を迫る

宛の将軍達は戦わずして降伏する
項羽は降伏して来た敵将を許し、そのまま
宛の統治も認めた   これは大いなる
驚きを持って見られた

慣習では、一旦侵略されると略奪
殺戮が常であった

この噂は、たちどころに秦の国中に広がり
続々と劉邦の軍門に下って行った

戦わずして平定していく劉邦、対して
あくまで武力で切り開いて行く項羽

先に関中に入ったのは劉邦であった
秦にはもはや抵抗する力も無く
皇帝は自ら投降して服従を誓う

劉邦は関中に先に入り王たる資格を得る
しかし関中の郊外、鴻門には項羽軍四十万が
迫っていた、片や劉邦軍は九万

項羽は、納得していなかった

確かに、関中に先に入ったのは劉邦である
但し、秦の主力軍二十万を打ち破ったのは
この項羽に他ならない

それに、劉邦は殆ど戦いをしていない
真の王は、この項羽である

項羽は、劉邦軍に総攻撃を命じる
四十万対九万では勝敗は明らかであった

この気配に気付いた劉邦は、項羽に
書状を託した使者を送る

臣、劉邦、王たる野心無く
ただ将軍に従うのみ

秦の財宝に一切手を付けざる事
これをもってその証しとなす

これを読んだ項羽は、総攻撃を一旦中止し
代わりに劉邦を宴席に招いたのである

宴席では劉邦を無き者にしようと剣舞が
舞われた   剣先が劉邦の体をかすめ
何度も死地に陥る、もはや風前の灯火  

この時劉邦の警護をしていた、樊噌
(はんかい)が宴席に躍り出る

項羽将軍、一言申し上げる
我が主(あるじ)劉邦に
二心ありませぬ

証拠に財宝には手を付けず
将軍の到着をただひたすら
待っておりました

忠なる臣を殺せば、あの残虐非道な
秦と同じではありませんか

それは大王として如何なものか

項羽の義を重んじる性格を知っていた
樊噌の必死の説得であった

暫く無言の後、項羽は一言、言葉を発する

壮士なり!

これにて座は一気に穏やかさを取り戻し
劉邦は厠と称して、宴席を抜け出し
自陣に戻ったのである

この後両者は幾度も戦い、最後は劉邦が
覇権を握り漢王朝の始祖となる

この運命を分けた宴席を、後世鴻門の会
(こうもんのかい)と呼んでいる

歴史にもしもは無いとしても、あの時
劉邦が討たれていれば漢文や、漢詩で
我々に馴染みの深い、漢王朝はなかった
かも知れない
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