真田幸村
投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/11/28 08:08 投稿番号: [4075 / 6355]
戦国の風雲児、真田幸村を
長いそうで2回に分けて
九度山の虎
慶長五年、天下の情勢は俄かには
緊迫し、石田三成と徳川家康の
衝突は避けられない状況となった
大名諸将、何れに付くか
御家の存亡を
賭けて瀬戸際の選択を迫られていた
信州真田家も例外ではなかった
当主真田昌幸は西軍に付く事を
主張する
徳川勢とは先年より因縁あり
これに組するは我が意にあらず
西方(がた)にて御家の安泰を
計るべし
真田と徳川はこれまで幾度と無く
小競り合いを繰り返しており
昌幸は
徳川に組みするのを良しとしなかった
対して嫡男信幸は徳川に付くべく
反論する
父上
天下の形勢は既に徳川に
傾いておりまする
治部殿を持ってしても西方勝利は
至難の業、何卒御再考を
話し合いは幾度となく繰り返された
しかし結論は出ず、互いに信ずる道を
進む事になったのである
昌幸と幸村は西軍に、信幸は東軍に
親兄弟敵味方に分かれる事になった
尤もこの信幸の判断が結果的に
真田家を幕末まで存続させる事になった
(信州松代藩)
慶長五年九月、徳川軍は二手に分かれて
進軍を開始する、家康は東海道を秀忠は
本隊三万八千を率いて中山道を進んだ
中山道の秀忠を待ち受けていたのが
信州上田城の真田親子であった
軍勢は僅か二千五百、秀忠軍の十分の一にも
満たない、しかし自在の戦略は秀忠軍を翻弄し
一刻も争う行軍は十日余りも足止めを余儀なく
された
この為秀忠は、肝心の関が原に間に合わず
後々家康から激しい叱責を受けた
万一西軍が勝利すれば第一の功労者は
真田親子であった
その関が原はあっけない幕切れとなった
西軍は総崩れとなり三成は斬首、昌幸
幸村も捕らえられ、紀州九度山に蟄居の
身となった
九度山に預かりの身となってより
十五年
幸村は次第に老いていく己が
疎ましかった
姉に宛てた書状で
我既に齢(よわい)四十七、歯は欠け
髪は白く弱き身となり申した
もやは朽ち果てるを待つばかり
武士の面目も叶わず、捕われ人で
九度山に屍
(しかばね)を晒すのみ
我が定めを嘆く幸村にある時一通の
書状が届けられた、豊臣秀頼からの
勧誘状である
此度、関東勢と一戦交えるものなり
貴殿の御高名、天下に知らぬ者なし
大阪城に入城されたし、委細はその後
天は我を見放さなかった、幸村は心躍らせ
勇躍大阪城に向かって行った
これは メッセージ 1 (beiowolf119jp さん)への返信です.
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