何故、嫌いな日本人に成り済ますのか?

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北条早雲

投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/09/26 08:25 投稿番号: [3774 / 6355]
戦国を切り開いた男達、一回目は
先駆者、北条早雲を


       北条早雲

長亭元年十一月、駿河の守護小鹿範満の
館を襲撃する一団があった

押し出せー!   守護殿の御印を挙げよ!

先頭に立つのは、伊勢新九朗
後の北条早雲である

守護職小鹿範満は、先代今川義忠の
従兄弟に当り、嫡男竜王丸が幼い為
家督代行として補佐に当っていた

しかし、竜王丸が成長した後も家督を
継がせず、自らが当主として振る舞い
これを危惧した竜王丸擁護派が幕府に
援軍を求め、早雲が派遣された

この時早雲五十六歳   ここから新たな
国取物語りが始まる

謎の多い早雲の前半生、一介の素浪人説
伊勢の豪族説、諸説入り乱れる中で
最近真相が伝えられるようになって来た

早雲は備中荏原荘の領主伊勢盛定の
子として生を受ける、呼び名は
伊勢新九朗盛時

伊勢氏は、本家の京都伊勢氏と共に
武家の礼儀作法を指導する由緒ある
名門であった

早雲も当然、高い教養を身に付けていたと
思われる

三十代になると、将軍足利義政の弟
足利義視に仕える、この時天下の大乱
応仁の乱が勃発する

山名氏と細川氏の争いに端を発した
この大乱は全国を戦乱に巻き込み
十一年に渡り続いたのである

早雲の主、足利義視も東軍の総大将として
戦さに明け暮れていた、この戦いは凄惨を
極め、京の街は略奪が横行し辻々には
餓死者がその屍を晒していた

なんと酷い事か、地獄絵図も斯くの如し
我も又、民に仇なす者なり

斯くなる上は、御仏に御すがりする他はなし

民衆の苦しみを憂いた早雲は、義視の元を
辞し僧門に入る  

京大徳寺で、十年に渡る読経三昧の後
早雲の心境に変化が起こる   それは
苦しむ民を救う為か、それとも
武家としての野望か

突如大徳寺を去り幕府の申次衆となる
そして数年後駿河に下向し、小鹿範満を
討つのである

早雲は更に伊豆を手中に収める、次なる
標的は相模であった、しかし相模には
天下の要塞、小田原城があり容易に
攻め入る事は出来なかった

早雲は慎重に事を運ぶ

急がずとも良い、機が熟せば事は成就する

小田原城には、勇猛で名を馳せた大森氏頼が
城主として睨みを効かせていた、流石の早雲も
氏頼存命中は小田原攻略はならなかった

氏頼が亡くなり、嫡男藤頼が家督を継ぐと
早雲は動き出す、頻繁に文や珍品を贈り
藤頼の信用を得たのである

若い藤頼は早雲を信じ、疑念を持つ事は
なかった、そこで早雲は一計を講じる

藤頼に書状をしたため

伊豆で鹿狩りの折、小田原城の裏山に
逃げ申しそうろう

されば、小田原城に勢子を遣わしたく
何卒良しなに

藤頼はこれを許し早雲は勢子を入れる
これは勢子に扮した早雲の兵で裏山から
一気に小田原城を攻め落とす

この時早雲、六四歳

この後上杉との戦いに敗れ、一時勢力を
落とすも三浦氏を滅亡させ、二十年に及ぶ
相模攻略は幕を下ろし、名実共に関東の
大大名となった、

早雲は国取りは容赦なかった、敵将の首を
城の石垣に吊す事も度々であった
斉藤道三と同じく、徒手空拳でのし上る者の
宿命とも言えた

しかし民衆には善政を敷いた、年貢を
引き下げ商人を呼び込み、北条五代の礎を
築いた

応仁の乱の、悲惨な姿が脳裏に浮かんで
いたのかも知れない

また領内に朱印状を発し、足利政権との
決別を表明した

我が領内の事は、総て新九朗が決め申す

これこそが、戦国時代の幕開けであり
その後の英傑達の先駆けとなったのである
 
戦国時代の先駆者伊勢新九朗   晩年早雲と
号し韮山城で静かに息を引き取った
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