何故、嫌いな日本人に成り済ますのか?

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道真公

投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/08/29 09:54 投稿番号: [3645 / 6355]
天神様として全国で親しまれている
菅原道真公、その実像は辣腕政治家で
あった、その辺りを少しだけ

        道真公

昌泰四年一月、醍醐天皇より急遽
御所に召された要人の中に、右大臣
菅原道真の姿だけがなかった

いぶかる高官達の前で、左大臣藤原時平が
天皇の詔(みことのり)を奉じる

右大臣菅原道真、不届きの行いこれあり
よって右大臣職を解き、大宰府へ転任を
命ず

これは時平が仕組んだ策謀であった
宇多上皇を後ろ盾に、権力の中枢に迫る
道真に、危惧を抱いた藤原氏の反撃でも
あった

代々菅原家は学問で朝廷に仕えてきた
道真も三十三歳の折、文章(もんじょう)
博士に任じられる、学者として最高の
名誉であった

道真は夜を徹して、学問に打ち込んだ

その道真を政治に目覚めさせる転機が訪れる
仁和二年、突如文章博士を解任され
讃岐の国の国司に命じられる

道真の落胆は大きかった、学者としての
道が閉ざされ辺境の国司となる、しかし
宮仕えの身には逆らう事は出来なかった

讃岐に入った道真は、余りの荒れ果てた
惨状に驚き呆然と立ちすくむ

何とした事、人々は破れた衣をまとい
その日の糧にも、窮している

道真は、思案に耽る

自分に何が出来るのか、国司として
どう対処すればいいのか

疲弊する民衆を救うには、何を成すべきか

そして政治に打ち込んで行く、税の軽減
新田の開墾、次々に手を打ち、次第に
讃岐に安定が訪れるようになった

更に道真は意見書を朝廷に差し出す
それは財政改革に付いてであった

当時朝廷の財政は、慢性的な税収不足で
崩壊寸前であった

租税は男子のみに掛けられ、総ては
国が管理していた、この為農民は戸籍に
男子を記載せず女子だけを記載する
ようになった

更に税の重い国の管理を嫌い、寺や貴族に
土地を寄進し僅かな名義料を払って
実質的に土地を支配した

これでは国に税は入る筈はなかった
道真はこの点について意見書を
差し出したのである

それは、税は人に掛けるのではなく土地に
かけるべきであり   寺や荘園に寄進した
土地は、総て農民に返し税も軽減する
というものであった

この道真の意見書に目を付けたのが
宇多天皇であった

宇多天皇は、改革の道を模索していた
しかし強大な藤原氏に抑えられ、意は
叶えられなかった

道真が任期を終え、京に戻ると宇多天皇は
早速道真を呼び、側に仕えるよう命じる
のである

これから、道真の大抜擢が始まった
僅か三年の間に九つの要職を歴任、ついに
参議となった

この間道真は財政改革に辣腕を振るう
税制を改革し税の増収を計った

更に全国に、問民苦使(もんみんくし)を
派遣する、これは困窮する農民の訴えを聞き
問題の解決に役立てようと言うものであった

道真は、上皇となった宇多天皇の厚い
信頼の元、菖泰二年、右大臣となる

藤原氏以外に右大臣に抜擢されるのは
極めて異例であった

それは藤原氏にとって大いなる脅威であった
又道真が押し進める改革は、彼ら貴族に
取って自らの基盤を失いかねない
大失政と映ったのである

それが菖泰四年一月、道真の失脚に
繋がっていった

道真は、この知らせを屋敷で聞く

急ぎ御所に上り、お上に奏じるべきか
それとも、上皇様におすがりして
我が意を伝えるべきか

道真は、どちらもしなかった、

これも已む無し、我はただ日ノ本の
安泰を願うのみ

妻子を残し単身、大宰府に向け旅立っていった

東風吹かば、匂いおこせよ梅の花
あるじなしとて、春な忘れそ

大宰府に赴任してより二年の後、延喜三年
(903)二月二十五日、道真は失意の内に
息を引き取った

(享年五十九歳)

道真亡き後、改革を推し進めたのは意外にも
あの藤原時平であった、困窮した財政を
立て直すには、道真の敷いた改革の道を
歩まざるを得なかった

そしてそれは成功を収め、人々は余裕を
取り戻し後に花開く、平安文化の礎と
なったのである

学問の神様として全国で信仰を集める
天神様、その実像は財政改革を成し得た
真の政治家だったと言えるかも知れない
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