Re: 戦国の女達
投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/08/16 08:47 投稿番号: [3566 / 6355]
戦国の女達、2回目はクリスチャンとして
名高いガラシャ夫人を
ガラシャ夫人
本能寺の変は、光秀の三女玉子が嫁ぐ
細川家を激震させた 細川藤孝、忠興親子は
直ちに重臣を集め軍議を開く
当主、藤孝がまず口火を切る
日向ノ守殿、御謀反これあり
我等、如何(いかが)処すべきか
皆の者、所存あらば申し述べよ
さればで御座る、我が細川家と明智家は
親戚の間柄、明智殿へ与力致すが宜しいかと
如何にも、明智殿はもはや天下人(びと)
これに御味方するは、御家の為
待たれよ! 忠興が異議を唱える
確かに、我が細川家と明智家は懇意の間柄
されど、明智殿は主君を討った謀反人
必ずこの汚名は付いて回る、天下は
彼の御仁の、手中にはなるまい
これに与力するは、我等も又
裏切り者の誹りを受けるは必定
父上、何卒誤りなき御判断を
うむ、、忠興の申し様 尤も至極
我が細川家は、今後明智家とは
関わりなしと致す
細川家の方針は固まり、光秀からの
幾度にも渡る援軍要請にも、応じる事は
なかった
この後、光秀は山崎の合戦で秀吉に破れ
最後は土豪の手に掛かり、あえない
最後を遂げる
ここで窮地に陥ったのが、忠興の正室
玉子であった、謀反人の娘として
身の置き所がなかった
夫忠興も、秀吉への配慮から玉子の処遇を
考えざるを得なかった
居城田辺城よりほど遠い、丹後味土野の
山中に二年の永きに渡って、幽閉したのである、
玉子は僅かな侍女と、侘しい時を過ごす
お父上の御無念を思うと
我が身の何と、頼りなき事か
幽閉が解かれたのは天正十二年、秀吉の
とりなしにより玉子は大阪細川屋敷に戻り
再び忠興と暮らすようになる
屋敷に戻った玉子は、外出を禁じられ
さながら籠の中の鳥であった、忠興は
何人もの側室を持ち、玉子は鬱々とした
日々を送っていた
そんな頃、玉子にバテレンの話が入ってきた
彼等によれば、何人(なんびと)と言えど
神の前では平等であり、教えに従えば
心の平穏が得られると言うのである
これを聞いた玉子は、矢も盾もたまらず
屋敷を抜け出し、天馬の教会に駆け込んだ
玉子には聞きたい事が山のようにあった
応対する宣教師に、矢継ぎ早に質問を
投げかける
生とは、死とは、来世とは 義とは
玉子は父光秀の影響もあり儒学に明るかった
宣教師に、キリスト教との違いを幾度も
指摘する
驚いた宣教師は、後に書き残したイエスズ会
日本報告集の中で
私はかって、これほど聡明な女性を
見た事が無い、そう述べている
玉子は先に洗礼を受けた、侍女清原マリアの
手によって洗礼を受ける、洗礼名はガラシャ
ラテン語で、神の恵みという意味である
これより後、玉子はガラシャ夫人と呼ばれ
ようになる
敬虔なクリスチャンとなったガラシャは
心の平穏を取り戻し、生きる喜びを知るのである
みなし児を屋敷に住まわせ、自ら世話を焼いた
それは何物にも変えられぬ、生き甲斐となった
しかし又もや悲劇がガラシャを襲う、家康が
上杉討伐に向かった隙に、石田三成が
挙兵したのである
三成は大阪に残された、東軍側の妻子を
人質に取り西軍に付かせようとする
忠興も、東軍に参じ家康に従い上杉討伐に
加わっていた
出発前、忠興はガラシャに言い残す
三成挙兵の恐れあり、万一の時は
自刃も止むなし よいな
そしてついにその日がやって来る、慶長五年
七月十七日、細川屋敷を三成軍が取り囲む
人質になるよう説得されたガラシャは
これを拒絶
自刃を許さない教義に従い、家老小笠原
少斎に胸を貫かせて最後を遂げた
享年三十八歳
細川ガラシャ、思えば数奇な運命だった
本能寺がなければ平穏な人生の筈であった
本能寺のあとの屈折した日々、更に
クリスチャンとなり信仰に生きた至高の時
そして無念の最後
戦乱の世に生きる女達の、厳しさが
ガラシャ夫人に重なって見えてくる
余談ながらガラシャ夫人の生涯は、遠く
ヨーロッパに伝えられ、貴婦人の鏡として
絶賛されている
ウイーン国立図書館には、ガラシャ夫人の
一生を描いた歌劇の楽譜が残されている
西洋の貴婦人達にも、影響を与えたガラシャ夫人
我々が知るより、もっと大きな存在なのかも
知れない
名高いガラシャ夫人を
ガラシャ夫人
本能寺の変は、光秀の三女玉子が嫁ぐ
細川家を激震させた 細川藤孝、忠興親子は
直ちに重臣を集め軍議を開く
当主、藤孝がまず口火を切る
日向ノ守殿、御謀反これあり
我等、如何(いかが)処すべきか
皆の者、所存あらば申し述べよ
さればで御座る、我が細川家と明智家は
親戚の間柄、明智殿へ与力致すが宜しいかと
如何にも、明智殿はもはや天下人(びと)
これに御味方するは、御家の為
待たれよ! 忠興が異議を唱える
確かに、我が細川家と明智家は懇意の間柄
されど、明智殿は主君を討った謀反人
必ずこの汚名は付いて回る、天下は
彼の御仁の、手中にはなるまい
これに与力するは、我等も又
裏切り者の誹りを受けるは必定
父上、何卒誤りなき御判断を
うむ、、忠興の申し様 尤も至極
我が細川家は、今後明智家とは
関わりなしと致す
細川家の方針は固まり、光秀からの
幾度にも渡る援軍要請にも、応じる事は
なかった
この後、光秀は山崎の合戦で秀吉に破れ
最後は土豪の手に掛かり、あえない
最後を遂げる
ここで窮地に陥ったのが、忠興の正室
玉子であった、謀反人の娘として
身の置き所がなかった
夫忠興も、秀吉への配慮から玉子の処遇を
考えざるを得なかった
居城田辺城よりほど遠い、丹後味土野の
山中に二年の永きに渡って、幽閉したのである、
玉子は僅かな侍女と、侘しい時を過ごす
お父上の御無念を思うと
我が身の何と、頼りなき事か
幽閉が解かれたのは天正十二年、秀吉の
とりなしにより玉子は大阪細川屋敷に戻り
再び忠興と暮らすようになる
屋敷に戻った玉子は、外出を禁じられ
さながら籠の中の鳥であった、忠興は
何人もの側室を持ち、玉子は鬱々とした
日々を送っていた
そんな頃、玉子にバテレンの話が入ってきた
彼等によれば、何人(なんびと)と言えど
神の前では平等であり、教えに従えば
心の平穏が得られると言うのである
これを聞いた玉子は、矢も盾もたまらず
屋敷を抜け出し、天馬の教会に駆け込んだ
玉子には聞きたい事が山のようにあった
応対する宣教師に、矢継ぎ早に質問を
投げかける
生とは、死とは、来世とは 義とは
玉子は父光秀の影響もあり儒学に明るかった
宣教師に、キリスト教との違いを幾度も
指摘する
驚いた宣教師は、後に書き残したイエスズ会
日本報告集の中で
私はかって、これほど聡明な女性を
見た事が無い、そう述べている
玉子は先に洗礼を受けた、侍女清原マリアの
手によって洗礼を受ける、洗礼名はガラシャ
ラテン語で、神の恵みという意味である
これより後、玉子はガラシャ夫人と呼ばれ
ようになる
敬虔なクリスチャンとなったガラシャは
心の平穏を取り戻し、生きる喜びを知るのである
みなし児を屋敷に住まわせ、自ら世話を焼いた
それは何物にも変えられぬ、生き甲斐となった
しかし又もや悲劇がガラシャを襲う、家康が
上杉討伐に向かった隙に、石田三成が
挙兵したのである
三成は大阪に残された、東軍側の妻子を
人質に取り西軍に付かせようとする
忠興も、東軍に参じ家康に従い上杉討伐に
加わっていた
出発前、忠興はガラシャに言い残す
三成挙兵の恐れあり、万一の時は
自刃も止むなし よいな
そしてついにその日がやって来る、慶長五年
七月十七日、細川屋敷を三成軍が取り囲む
人質になるよう説得されたガラシャは
これを拒絶
自刃を許さない教義に従い、家老小笠原
少斎に胸を貫かせて最後を遂げた
享年三十八歳
細川ガラシャ、思えば数奇な運命だった
本能寺がなければ平穏な人生の筈であった
本能寺のあとの屈折した日々、更に
クリスチャンとなり信仰に生きた至高の時
そして無念の最後
戦乱の世に生きる女達の、厳しさが
ガラシャ夫人に重なって見えてくる
余談ながらガラシャ夫人の生涯は、遠く
ヨーロッパに伝えられ、貴婦人の鏡として
絶賛されている
ウイーン国立図書館には、ガラシャ夫人の
一生を描いた歌劇の楽譜が残されている
西洋の貴婦人達にも、影響を与えたガラシャ夫人
我々が知るより、もっと大きな存在なのかも
知れない
これは メッセージ 1 (beiowolf119jp さん)への返信です.